Jan 5, 2009

Revisited

蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー──思考と感性とをめぐる断片的な考察』と高橋源一郎『いつかソウル・トレインに乗る日まで』を、ひとまず私が着目している「帰郷」という切り口で捉えてみると、「一九九五年八月三日木曜日午前八時一五分」のゴダール家の方への飛行に始まり、「二〇〇六年七月二日日曜日午後一一時二五分」のポンピドゥー・センターの「ユートピアへの旅、ジャン=リュック・ゴダール、1946-2006──失われたテレオマを求めて」からの飛行に終わる『ゴダール マネ フーコー──思考と感性とをめぐる断片的な考察』は、一見、ゴダールへの旅立ちとゴダールからの帰郷という構図に収まっているかのように見える、が、勿論、日付からも容易に推察される通りこの旅立ちと帰郷は精確に対をなしてはいない。また「一九八〇年」と「二〇〇四年」にソウルへ行く『いつかソウル・トレインに乗る日まで』には、そこからの帰郷は約束されていない。……しかし、これらの2冊が「帰郷」の物語と全く無縁ではないことはその往復運動に明らかで、恐らく、これらは「帰郷」と偶奇の関係をなしている「再訪」の物語なのではなかろうか。Evelyn Waughの"Brideshead Revisited"やScott Fitzgeraldの"Babylon Revisited"、Bob Dylanの"Highway 61 Revisited"も含めて、"Revisited"について少し考えることとする。