ジークフリート・レンツの『アルネの遺品』を読む。「一家心中で一人だけ生き残った少年アルネは、父親の友人一家の新しい家族として迎えられる。けれども運命は彼にとってあまりに過酷だった。……」と扉の解説に早速書かれている通り、何ともいたたまれない物語で、「両親はぼくに、アルネの遺品を箱に詰めてくれないかと頼んだ。」と始まるこの小説は、遺品を見出すたびに在りし日のアルネがよみがえる、という体をなしている。しかし、注目しなければならない点は、アルネの思い出がほぼ時系列に並んでいるということで、間違っても終焉を引き寄せてしまう遺品を「ぼく」は初手から引いてしまったりはしない。「あの頃」を反芻する為には、遺品を箱に詰める順番だけでなく、父、妹、弟が部屋に入ってくる順番さえも、予め規定されていなければならないわけで、現在が過去を引き寄せるのではなく、過去が現在を引き寄せているのだ。
Feb 27, 2008
Feb 22, 2008
とばりを降ろせ、愛の夜よ / マルセル・ライヒ=ラニツキ
マルセル・ライヒ=ラニツキの『とばりを降ろせ、愛の夜よ』を読む。トーマス・マン、カフカ、ブレヒト、ムージル、デーブリーン、シュニッツラー、トゥホルスキーの「7人のパイオニア」について書かれたエッセイだ。現代ドイツの「文学の教皇」と聞いていたので、吉本隆明みたいなものかと想像していたが、なかなかどうして奥野健男のようだ。何というか下世話な感じが良い(……奥野健男って下世話だったっけ?)。とにかく、当節、この種の作者フェチっぷりは、かえってすがすがしいではないか。
「また、こんなことがあるとは。また、恋をするとは」とホテルのボーイについて書いた75歳のトーマス・マンの日記を引用し、「トーマス・マンの判断力はすでに曇っており」などと言いながら、仕舞いには「彼の恋愛体験はどれも彼の文学のなかに沈殿している」と締め括ってしまうライヒ=ラニツキを見ると、寧ろ、判断力を曇らしているのは、トーマス・マンの虜になったライヒ=ラニツキ自身ではないかと思えてしまう。引用された日記からは、トーマス・マンの「恋愛体験」が逆にトーマス・マン「文学」のまねをしているだけなのでは? という印象を受けるからだ。久しぶりにトーマス・マンが読みたくなる。
「また、こんなことがあるとは。また、恋をするとは」とホテルのボーイについて書いた75歳のトーマス・マンの日記を引用し、「トーマス・マンの判断力はすでに曇っており」などと言いながら、仕舞いには「彼の恋愛体験はどれも彼の文学のなかに沈殿している」と締め括ってしまうライヒ=ラニツキを見ると、寧ろ、判断力を曇らしているのは、トーマス・マンの虜になったライヒ=ラニツキ自身ではないかと思えてしまう。引用された日記からは、トーマス・マンの「恋愛体験」が逆にトーマス・マン「文学」のまねをしているだけなのでは? という印象を受けるからだ。久しぶりにトーマス・マンが読みたくなる。
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