Mar 19, 2018

七〇 良暹法師

七〇 良暹法師
さびしさに やどをたちいでて ながむれば
      いづこもおなじ あきのゆふぐれ

<通釈> 秋の夕方は淋しくて堪えがたいから、家を出てながめわたすと、どこもかしこも同じさびしい秋の夕暮であることよ。
(任天堂株式会社『小倉百人一首しおり』)

任天堂の通釈に異を唱えるつもりはないが、「家を出」たのは、本当に「秋の夕方は淋しくて堪えがた」かったからだろうか? 「淋しさに 宿を立ち出で」たとは聞いたが、その淋しさは果たして秋の夕方と関係していたのか? 淋しさに理由など要らないし、状況証拠も必要ないと思うのだが……。そう、春夏秋冬、朝昼晩、家でも店でも広場でも、俺たちはいつどこで淋しくなってもいいじゃない!
 と、そんな決意表明はともかく、「いづこも同じ 秋の夕暮れ」という鮮烈な言葉は、もはや誰か一人の人間が作ったとは思えないくらいに、この言語に染み着いているように感じられる。しかし、このフレーズの魅力は一体何なのか? これは単なる淡い期待と裏切られた期待の話ではないだろう。淡い期待には淡い不安も入り混じっていて、「いづこも同じ」には、失望だけでなく救いもあるはずだ。仕切られた空間、中と外、此方と彼方の問題、「ここではないどこかへ!」という空間の不連続にまつわる期待と不安を、「いづこも同じ」は、「『ここではないどこか』など、どこにもない!」とばかりに打ち壊す。おや、残念、でも、よかった……。諦めつつ高を括るという速やかで軽やかな諦念と自足の儀式。「いづこも同じ 秋の夕暮れ」というイデオロギーは、この歌を共有する者の強みでもあり、限界でもあるに違いない。

 ところで、土地も時代も異なるThe Kinksが、”Autumn Almanac”で、
This is my street, and I'm never gonna to leave it,
And I'm always gonna to stay here
If I live to be ninety-nine,
'Cause all the people I meet
Seem to come from my street
And I can't get away, (…)
と、彼方の不可能性を歌っていることを考えると、やはり「秋」には圧倒的なものを感じさせる何かがあるのかも知れない。



一方、ヴェルレーヌの「秋」は……、いや、それよりも何よりも、ボードレールの「秋」は、遥かに切実で、「あなたの長いまなこの緑がかった光が好きだ(安藤元雄訳)」とか言いながら、恰もダニアースのCMの野坂昭如のように切羽詰まっている。が、それはまた別の機会に。



良暹
良暹(りょうぜん、生没年不詳)は、平安時代中期の僧・歌人。
出自・経歴については不明であるが、比叡山(天台宗)の僧で祇園別当となり、その後大原に隠棲し、晩年は雲林院に住んだといわれている。一説では、康平年間(1058年 - 1065年)に65歳ぐらいで没したともいわれている。
歌人の友として、賀茂成助・津守国基・橘為仲・素意法師などがいた。(…)
(Wikipedia)
……友達、全員知らない人。

Mar 5, 2018

安兵衛狐 / 古今亭志ん生(五代目)



怖くない幽霊や、狐狸の類が出てくる落語が好きなのだが、それはそういう噺には大抵嫌な奴が出て来ないので、取り分け眠りながら聴くにはもってこいだからであって、しかし、このように悪の出て来ない物語を好むというのは確かに退嬰的な嗜好に違いない。ミシェル・リオの『踏みはずし』のジュリーと「男」の会話を思い出そう。
「つまり、面白くなるためには、悪者が必要だってことかな?」
ジュリーが笑いだした。
「うん。そう思う」
(ミシェル・リオ『踏みはずし』堀江敏幸訳 白水社 新しいフランスの小説p.120)
しかし、そうだとしても、やきもきする話はごめんだ。何せ当方のモットーは「昨日と同じ今日、今日と同じ明日」なのであり、♪安心な僕らは旅に出ない。ただ、落語を耳元に囁くようにかけつつ枕をしとど濡らす明け暮れなのだ。
さて、寝入り際に聴く落語は、私見によれば、古今亭志ん生(五代目)、三笑亭可楽(八代目)、桂米朝(三代目)に限るが、なかでも古今亭志ん生の「安兵衛狐」はうってつけで、繰り返し聴いており、しかし、それは決して、この「安兵衛狐」という噺――上方落語「天神山」からの移植とのこと――がいわゆる完成度の高い物語だということを意味しない。まずは粗筋を。
六軒長屋で、四軒は仲が良い。残りの二軒に住む偏屈の源兵衛とグズの安兵衛(グズ安)は隣同士仲が良いが、四軒とは気が合わない。四軒は亀戸に萩を見に行くことになり、二軒を渋々誘うが、グズ安は留守、源兵衛は萩なんてつまらないから墓を見に行くという。
行きがかり上、源兵衛は女の墓の前でちびちび飲んでいたが、塔婆が倒れ骨が見えたので酒をかけ弔った。その晩、女が礼に来て恩返しに女房になる。
それを聞いたグズ安も女房欲しさに出かけたが、なかなか骨の出ている墓がなく、段々奥の方に来ると、狐取りが狐を取っていた。罠にかかった子狐を哀れみ、買って逃がしたところ、その晩、亡くなったお里の娘おコンというのが現れ、家に置いてくれという。グズ安は狐と夫婦になった。
四軒の仲間は、語尾に「コン」を付けるおコンを怪しむ。「あなたは何かの化身じゃないか」と詰め寄ると、図星を指されたおコンは飛び去った。
そこで、狐を女房にしている安兵衛も狐じゃないか、と、一同は安兵衛のおじさんを訪ねる。しかし、おじさんは耳が遠い。大声で「安兵衛さんは来ませんか?」と訊ねると、「何、安兵衛? 安兵衛はコン」「あ、おじさんも狐だよ」
一般的に、伏線-回収(ボケ-ツッコミ、フリ-オチ、連想)による宙吊り(サスペンス)という基本単位を、長短様々なサイクルで縒り合わせることで、物語は紡がれるわけだが、極めて図式的に表すと、シンデレラのような復讐譚や勧善懲悪とは、長いサイクルの宙吊りが勝っている例で(細部連鎖なき全体収斂→カタルシス重視)、逆に、自動記述やロードムービーは、ひたすら短いサイクルに終始することによって遠くに運ばれようとしている(細部連鎖による拡散→グルーヴ感重視)と言える。人気の冒険活劇の多くが、分かり易い長いサイクル(一巻丸ごとを駆り立てる口実、例えば「地球を救う」)と、中位のサイクル(次のシークエンスで回収されるサイズのヤマ、例えば「宇宙船の故障」)とで構成され、酔っ払いでも追える距離感を保ちつつ、脱落者なく全員をカタルシスへと導くことに腐心していることも想起したい。
その観点からすると、萩→墓→幽霊→狐→コンと、振り返らずにまっしぐらに走り抜ける本作は、正しくロードムービータイプで、折角現れた強烈な部品を惜しみなく視界の外へと押し流していく。例えば、幽霊はどうなったのか? 源兵衛と幽霊、グズ安と狐の夫婦が入り乱れてもう一波乱の末、大団円に向かうことも可能だったはずで、それがいわゆる完成度の高い物語ということになろう、……が、それでは、こちらは結末が気になっておちおち寝ていられない。

「萩」は取り敢えずの始まりに過ぎず、「コン」は取り敢えずの終わりに過ぎない。この「安兵衛狐」は始まりも終わりもなく、無限に続けることが可能な果てしない物語なのであって、どこから飛び乗っても、どこから飛び降りても、乗っている間はノリノリにしてくれる最高かつ重宝な物語なのだ。もしかしたら君はGrateful Deadを思い浮かべたか?