松永美穂訳繋がりでベルンハルト・シュリンクの『朗読者』を読む。「ぼくは当時『オデュッセイア』を再読していた。……帰郷の物語としてずっと記憶にとどめていた。しかし、それは帰郷の話などではなかった。同じ流れに二度身を任せることができないと知っていたギリシャ人たちにとって、帰郷など信じられないことだった。オデュッセウスはとどまるためではなく、またあらためて出発するために戻ってくる。『オデュッセイア』はある運動の物語にほかならない。」という文章で、え、帰郷の物語じゃなかったの? と、『オデュッセイア』が読みたくなる。シュリンク2006年の長編が"Die Heimkehr"『帰郷』であることを考えても、『オデュッセイア』には惹かれる。
Mar 17, 2008
Mar 12, 2008
お目出たき人 / 武者小路実篤
武者小路実篤の作品を長らく読んでいないことに気が付いた。読まない間も、山田風太郎や高橋源一郎の引用で何度か『ますます賢く』は目にしたが、それさえも随分前の話になる。
「僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。 / 人間もいくらか老人になったらしい、人間としては少し老人になりすぎたらしい。いくらか賢くもなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当の事はわからない。……」
と続くこの作品には、ご多分に漏れずクラクラしたものだ。今や武者小路実篤の代表作なのかも知れないこの文章を「老い」という範疇で片付けるのは容易いが、今回、著者26歳で発刊された『お目出たき人』を読んで、違った印象を受けることになった。阿川佐和子が解説で述べている「……たった二ページの間に五回も「自分は女に餓えている……」」と反復する手腕も素晴らしいが、
「自分はどうもたゞの空想家らしく思えていけない。何事も出来ず。これはと云う面白いこともせず。そうして天災で若死するような気がする。これも空想だろうと思うが、自分は雷か、隕石にうたれて死ぬような気がする。 / さもなければ肺病になって若死するかも知れない気がする。どうも自分はなが生しないような気がする。しかしそうかと思うとなが生出来そうな気もする、中々死にそうもないと思う。しかし天災、中でも雷と隕石があぶない。」
という文章はどうだろう? 例えば、前半「自分はどうも……死ぬような気がする」を赤で、後半「さもなければ……雷と隕石があぶない。」を青で印刷して、赤青眼鏡で眺めてみたら、何か立体が浮かびそうではないか……。つまり、われわれが二文(以上)を同時に読めるのならば、逡巡する思考がここに膨らみを持って現前するかも知れない。この混沌とした思考を、瞬間的な出来事だと読んでも、ここに書かれた順に時系列的に発生した出来事だと読んでも、この無邪気な実況中継ぶりは、最早心理描写の領分を越え、文章という装置の直線的・時間的な振る舞い(可能性? 限界?)を露わにしている。そしてこの文章表現に対する特異な告発が武者小路実篤の26歳と89歳の作品を繋いでいる。
「僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。 / 人間もいくらか老人になったらしい、人間としては少し老人になりすぎたらしい。いくらか賢くもなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当の事はわからない。……」
と続くこの作品には、ご多分に漏れずクラクラしたものだ。今や武者小路実篤の代表作なのかも知れないこの文章を「老い」という範疇で片付けるのは容易いが、今回、著者26歳で発刊された『お目出たき人』を読んで、違った印象を受けることになった。阿川佐和子が解説で述べている「……たった二ページの間に五回も「自分は女に餓えている……」」と反復する手腕も素晴らしいが、
「自分はどうもたゞの空想家らしく思えていけない。何事も出来ず。これはと云う面白いこともせず。そうして天災で若死するような気がする。これも空想だろうと思うが、自分は雷か、隕石にうたれて死ぬような気がする。 / さもなければ肺病になって若死するかも知れない気がする。どうも自分はなが生しないような気がする。しかしそうかと思うとなが生出来そうな気もする、中々死にそうもないと思う。しかし天災、中でも雷と隕石があぶない。」
という文章はどうだろう? 例えば、前半「自分はどうも……死ぬような気がする」を赤で、後半「さもなければ……雷と隕石があぶない。」を青で印刷して、赤青眼鏡で眺めてみたら、何か立体が浮かびそうではないか……。つまり、われわれが二文(以上)を同時に読めるのならば、逡巡する思考がここに膨らみを持って現前するかも知れない。この混沌とした思考を、瞬間的な出来事だと読んでも、ここに書かれた順に時系列的に発生した出来事だと読んでも、この無邪気な実況中継ぶりは、最早心理描写の領分を越え、文章という装置の直線的・時間的な振る舞い(可能性? 限界?)を露わにしている。そしてこの文章表現に対する特異な告発が武者小路実篤の26歳と89歳の作品を繋いでいる。
Mar 8, 2008
森のはずれで / 小野正嗣
小野正嗣の『森のはずれで』を読む。「妻が二人目の子供の出産のために実家に帰ったので、しばらく息子と二人きりで生活することになった」と冒頭一行でアリバイが揃うこの小説は、糸の切れた凧のように抑制を欠いた数多のマジックリアリズムと一線を画し、マジックとリアリズムの極めて曖昧な境界に留まり続けている。例えば「得体の知れない」片乳を出した老婆に「老婆はどことなく恥ずかしそうにうなずいた」を、一羽のメンドリを攻撃する「仲間のメンドリたち」に「庭の一部が、白いうねりとなって、うごめいていた」を与える。描写の対象への距離をいじるだけで、マジックもリアルにリアルもマジックになる、というより、そもそもマジックもリアルもなくて、そこには描写しかなかったことに気付かされる。
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