Aug 12, 2015

Go / The Chemical Brothers

"Go" (4 May 2015) is the second single released by The Chemical Brothers from the album Born in the Echoes (17 July 2015).
I couldn't help laughing as I watched the video clip directed by Michel Gondry.



What a hilarious performance. Clothes, makeup, buildings, stick dance (?) and of course music, everything is ridiculously serious. Even if it reminds us of François Truffaut’s “Fahrenheit 451” or Monty Python’s sketches, this is not a parody and at least, there is no irony. The proof is the eccentric stick dance. I get strange feeling of déjà vu with this dance but I cannot find out the original source (P.E. at school?).

This clip makes me feel like I can survive if only I have dance and laugh. Although they sing, “We're only here to make you go”, this song encourages me to stay here.

By the way, how could those ladies suppress a smile? I was touched by their pride of a professional.

Jul 21, 2015

Messe de Requiem en ré mineur, op. 48 III. Sanctus (Mi bémol majeur) / Gabriel Fauré

かつてSigur Rósのライブにて、「Hoppípolla」の最中に不意に涙腺がぶっ壊れて困ったことがある。「俺も!」「わたしも!」「ぼく、機械じゃないよ!」と、インターネット回線の向こうで声も高らかに、毛むくじゃらの手が、だらしなくも妖艶な二の腕が、そして、機械のようなアイボの前足が、次々に上がっている友愛に満ちた光景がどうしても瞼に浮かんでしまうのだが、そんな、この世界の荒廃について語っている暇はない。旋律、構成、演奏、歌、アイスランド語の響き、それに映像(あたかもデジタル花火!)と、兎に角、どれを取っても落涙を誘いつつ、しかし、それは安易なメランコリアではなく、例えば、知らない場所で水面を眺めている時などに、唐突に、もしくは、自分で自分を上手く煽れば入り込めたりもするあの感情の洪水(煽り方は分かるが止め方は分からない)を、針が振り切れんばかりに増幅した感じなのであって、なにせ、このカタルシスはすごい。そもそも、「水溜りをジャンプ」という題名を持つ曲が悪いわけがあろうか。……もう涙も枯れ果てたよ。



と、思っていたら、先日、またまた涙腺がガバガバになり、もはや枯れ井戸かとも囁かれていた両の眼から図らずも人間らしい涙(余談だが、Wikipediaによれば、ブタの涙は粘液だという)が滝のごとく、そう、櫂のしずくも花と散るとばかりに流れ落ちて、あらやだ、折角のお化粧が台なしザーマス、と、古今和歌集クラスの手弱女振りを発揮する羽目になったのだが、それもこれも、壊れかけのCharlus(←当方のiPod Classicの名前)がシャッフルにて届けてくれた、あのGabriel Fauréの『Requiem』第3曲「Sanctus」のお陰であった。「Hoppípolla」と「Sanctus」、差し詰め、分散和音は水面の揺らめき、とでも申しましょうか。



追伸、前にもメランコリアについて愛憎入り混じった無駄口を叩いているよ:「Lachrimae Antiquae / John Dowland (performed by J. Savall)」「鬱金 -前篇-

May 31, 2015

あー

「ちいさなかがくのとも」でバックナンバー品切れ中だった小野寺悦子 ぶん 堀川理万子 え の『あーと いってよ あー』が、2015年5月15日に「幼児絵本ふしぎなたねシリーズ」として第1刷発行されたよ あー。(昔、愛と平和のためにおすすめしたよ あー:「あーと いってよ あー / 小野寺悦子 ぶん 堀川理万子 え」)。

May 28, 2015

虎尾

しばらく前に花田清輝の『復興期の精神』と『もう一つの修羅』を読み返したばかりだったので、ゆくりなくも立ち寄った地方都市の美術館で黒田清輝の絵画を目にするやいなや、あれ? もしかして、この人、花田清輝と一文字違いでは? と、近代日本美術の根底を揺るがしかねない大発見をしてしまったのだった。インスピレーションと申しますか、運命とは実に摩訶不思議である。もちろん、どんな絵だったかはすっかり忘れたのだが、何でも、顔か何かが描かれていたような気がしていて、はてさて……と、これはまあ冗談で、山梨県立美術館の特別展『夜の画家たち ~蝋燭の光とテネブリスム~』で、黒田清輝の《レンブラント作《羽根帽子をかぶった自画像》模写》を観てその名前に虚を突かれつつ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《煙草を吸う男》と山本芳翠《灯を持つ乙女》では、蓮實重彦の『赤の誘惑 ――フィクション論序説』の「Ⅳ 少壮歴史家の書斎で」における「火を点す女」の一節を想起したりもしたのだった。
実際、『かのように』は、薄暗がりの中に「ぼうっと明るくなっては、また微かになって」ゆく小さな「赤」の誘惑によって始まっている。
(蓮實重彦『赤の誘惑 ――フィクション論序説』新潮社p.106)
「朝小間使の雪が火鉢に火を入れに来た時」という一行で始まる『かのように』は、まさに「火を点す女」としての小間使いの役割を無視しては読みえない作品である。
(同p.107)
……というか、まず、この展覧会自体が『赤の誘惑』に誘われたのではないかとさえ思われたのだが、そんなことよりもっとずっと大事な話をしよう。何と、七尾さんという方がいるらしいのである。え? 長尾さん? とはしたなくも聞き返してしまったのだが、いいえ、七尾さん、と言う。八尾さんという苗字は、実際にお会いしたことはないものの耳にしたことがあったが、七尾さんは尾が一本足りないのが少し心配で、いや、その前に、八尾さんにしたところで、歯ブラシ生産量日本一でお馴染み大阪府八尾市からの連想に過ぎず、実在するかどうかは不明だし……と問題は山積していたわけだが、最大の文化人類学的課題は、七つの尾というのは如何なる主題を秘めているものか、という点に尽きた。九尾の狐、八岐大蛇はご案内の通りだが、「七」とは一体何か? ……初期小説「七」? またしても花田清輝ではないか! とか何とか、まあ、考えるのが急に面倒臭くなったので、私は、腰をもぞもぞさせながらMadame Verdurin(当方のiPhoneの名前)を取り出すと、いそいそとGoogleで検索をかけたのだった。すると、何のことはない、石川県に七尾市という都市があるという。そして、Wikipediaによれば、「『七尾』の名称の由来は、七尾城のあった山(通称・城山)の7つの尾根(菊尾、亀尾、松尾、虎尾、竹尾、梅尾、龍尾)からと言われる。」とのこと。ねえねえ、どの尾にする? 僕は虎尾かなあ。何か恰好良いじゃん! ……ということで、〆の花田清輝。
『家畜系統史』のなかで、ケルレルは、豚にもまた、まったく知性がないわけではないと断じ、その証拠として、ルイ十一世が、風笛の音につれて踊ることをおぼえた子豚のむれをみてたのしむのをつねとした、という事実をあげているが、マザー・グースの歌を連想させる、この無邪気さと奇怪さとのいりまじった古めかしい舞踏図は、我々をして、豚の知性にたいしてよりも、むしろ、ルイ十一世の知性にたいして、いっそう多くの興味をいだかせる。
(「動物記――ルイ十一世」花田清輝『復興期の精神』講談社文芸文庫p.209)

Feb 23, 2015

Streets of London / Sinead O'Connor

"Streets of London" is a song written by British folk musician Ralph McTell in 1969. The song refers the homeless, lonely, elderly and ignored people. I imagine that it is difficult to sing this song properly, because it cannot be denied completely the slight arrogance in the attitude to contrast the socially vulnerable and our everyday problems. But this beautiful version of Sinéad O’Connor in her 1994 EP “Fire on Babylon” is overflowing with sorrow and has nothing to do with such arrogance.

Feb 22, 2015

五九 赤染衛門

百人一首界の山下達郎と言えばこの人、「五九 赤染衛門」。雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう。

五九 赤染衛門
やすらはで ねなましものを さよふけて             
      かたぶくまでの つきをみしかな

〈通釈〉 はじめから来ないと知っていたら、くずくずしないで寝てしまえばよかったものを、約束を信じて待っていたら遂に明け方の月が西に傾くまでになってしまったことよ。
(任天堂株式会社『小倉百人一首しおり』)

The Big Bang Theory

Applaud the tiara!

Feb 11, 2015

四三 権中納言敦忠

Wikipediaによれば、「藤原 敦忠(ふじわら の あつただ、延喜6年(906年) - 天慶6年3月7日(943年4月18日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、左大臣・藤原時平の三男。官位は従三位・権中納言。三十六歌仙の一人。通称は枇杷中納言・本院中納言」であり、「天慶5年(942年)には先任の参議4名(源高明・源清平・藤原忠文・伴保平)を越えて、一挙に従三位・権中納言に叙任されるが、翌天慶6年(943年)3月7日薨去。享年38」とのこと。
その短命もあってか、Wikipedia「右近」の項では、「三八 右近」の恨み節の相手とも囁かれ、また、「美貌であり、和歌や管弦にも秀でていた」らしく、「『後撰和歌集』や『大和物語』などに、雅子内親王(醍醐天皇皇女、伊勢斎宮)ほか多くの女流歌人との贈答歌が残されている」と、そのもてっぷりも絶賛紹介されているのだから、……まあ、どうせいけ好かない歌を詠んでいるんでしょ、……いやいや、絶対そうに決まっている! と、我ら不細工衆によって、端から拗け心全開で百人一首を紐解かれたとしても、これはもう、しょうがないのではないか。
ということで、

四三 権中納言敦忠
あひみての のちのこころに くらぶれば             
      むかしはものを おもはざりけり

〈通釈〉 こうして逢ってからの今の苦しい恋心にくらべると、逢はぬ昔は大した物思いをしなかったのだなあ。
(任天堂株式会社『小倉百人一首しおり』)

ああ、もう、何て言うか、洒落臭え!

Jan 17, 2015

三八 右近

百人一首の中で最も鬼気迫る、というか、ちょっとどうかしちゃっている一首と言えば、やはり「三八 右近」となるだろう。

三八 右近
わすらるる みをばおもはず ちかひてし             
      ひとのいのちの をしくもあるかな

〈通釈〉 あなたに忘れられるわが身のことは何とも思いませんが、ただ神かけて忘れないと誓ったあなたの命が、神罰をうけはしないかと惜しく思われることです。
(任天堂株式会社『小倉百人一首しおり』)

……お、脅しか、これは? モンティ・パイソンのマフィアのスケッチを彷彿とさせる入魂の作品である。


右近(歌人)
右近(うこん、生没年不詳)は、平安時代中期の女流歌人。父は右近衛少将藤原季縄。 醍醐天皇の中宮穏子に仕えた女房で、元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順などと恋愛関係があった。(…)一説によると、この歌の相手は藤原敦忠と言われている。
(Wikipedia)
やけに下世話な人物紹介だが、それもまた良し。こうなって来ると、お相手と目された「四三 権中納言敦忠」の歌が大変気になるところ……。短命だったことが、右近の一首との関連付けを誘ったと目されるが、Wikipediaによれば、この権中納言、何でも、和歌・管弦に秀でた美貌の公家だったらしい。のっけから少女漫画の匂いがぷんぷんするではないか。