"Brave New World"繋がりで、シェイクスピアの『テンペスト』を読む。「野蛮で奇形の奴隷」キャリバンの"The red plague rid you / For learning me your language!"(「疫病でくたばりやがれ、 / おれにことばを教えた罰だ。」(小田島雄志=訳))という穏やかじゃない科白にじんと来る。田村隆一の「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」(「帰途」)よりも何だか激烈だが、"your" languageという辺りに現実的な匂いもするわけで、プロスペローとミランダが漂着した島の現地人キャリバンとしては、実は、ただ単に植民地化政策の「暴力」の話をしているだけなのかも知れない。……しかし、そんな詰まらない解釈はどうでも宜しい。
Dec 30, 2008
Dec 29, 2008
My Dark Hour / Steve Miller Band
"Brave New World"という言葉のHuman Be-In(1967)以降の使用例として、真っ先に思い浮かぶSteve Miller Bandの3rdアルバム"Brave New World"(1969)を聴く。Steve Miller Bandと言えば、2ndアルバム"Sailor"に入っている猫なで声の名曲バラード"Dear Mary"がベスト・チューンだと常々思っていたが、久しぶりに耳にした3rdでは、Paul McCartneyが"Paul Ramon"名義でベースを弾いている最終曲"My Dark Hour"の、アウトロの(例外的とも言える)白熱ぶりにノリノリになる。
Dec 28, 2008
絵本の魔術師 エリック・カール展 ~『はらぺこあおむし』から最新作まで~
絵本の魔術師 エリック・カール展へ行く。大混雑だったので大半は足早に駈け抜けたが、比較的前が空いていた作品「赤い目をした灰色のマスク」は、じっくり観ることが出来た。単に私の斑点好みによるものかも知れないが、これはいい。
また以前、私は『はらぺこあおむし』について、「最後の3ページって本当に必要?」と漏らしたものだが(「はらぺこあおむし / エリック・カール」)、今回知った『はらぺこあおむし』の前身作『虫のウィリーの一週間』では、緑の虫がリンゴやナシ、チョコレートを食べて穴を開けるだけで、最後にチョウにはなったりはしない。すなわち、『はらぺこあおむし』とは、普通の変態譚を書こうとして、ついつい「はらぺこ」部分に興が乗ってしまった帰結ではなく、ほとばしる「はらぺこ」を「変態譚」の枠組に納めた作品なのだ。……ところで『虫のウィリーの一週間』の最終項に現れた巨大な緑の塊(チョウにならないウィリーのなれの果て)は、最高にチャーミングだと思う。
また以前、私は『はらぺこあおむし』について、「最後の3ページって本当に必要?」と漏らしたものだが(「はらぺこあおむし / エリック・カール」)、今回知った『はらぺこあおむし』の前身作『虫のウィリーの一週間』では、緑の虫がリンゴやナシ、チョコレートを食べて穴を開けるだけで、最後にチョウにはなったりはしない。すなわち、『はらぺこあおむし』とは、普通の変態譚を書こうとして、ついつい「はらぺこ」部分に興が乗ってしまった帰結ではなく、ほとばしる「はらぺこ」を「変態譚」の枠組に納めた作品なのだ。……ところで『虫のウィリーの一週間』の最終項に現れた巨大な緑の塊(チョウにならないウィリーのなれの果て)は、最高にチャーミングだと思う。
Dec 7, 2008
20世紀ポップ・ロック大全集 Vol.5 愛と平和のサイケデリック・ロック
どうやら、当方が『20世紀ポップ・ロック大全集 Vol.5 愛と平和のサイケデリック・ロック -ドラッグカルチャーとしてのロック-』を観る時は、やや心細くなった時らしい。このBBCドキュメンタリーは、ボブ・ディラン「雨の日の女」(1966)で幕を開け、ウッドストック・フェスティバル(1969.8)まで一気に高揚して行くと、雪崩落ちるようにオルタモントの悲劇(1969.12)に至る……という構成になっており、『俺たちに明日はない』(1967)と類似のカタルシスを与えてくれるのだ。
もう何十回となく観ているが、今回は1967年1月14日にサンフランシスコのゴールデンゲートパークで行われ、Allen Ginsberg、Gary Snyder、Jefferson Airplane、The Grateful Dead、Quicksilver Messenger Serviceらが参加した集会、Human Be-Inの会場アナウンスに心奪われた。曰く、
それはともかく、"Brave New World"という言葉のHuman Be-Inでの使用は、恐らくシェイクスピア『テンペスト』のミランダの科白が木霊しているのだろう。
ところで、字幕の日本語訳、"この素晴らしい新世界に諸君を迎え入れよう"はいいね。多分、通天閣上ってから、帰りに串カツでも食わしてくれるんだろう。確かに素晴らしい。
もう何十回となく観ているが、今回は1967年1月14日にサンフランシスコのゴールデンゲートパークで行われ、Allen Ginsberg、Gary Snyder、Jefferson Airplane、The Grateful Dead、Quicksilver Messenger Serviceらが参加した集会、Human Be-Inの会場アナウンスに心奪われた。曰く、
I would say this to all the members of the Establishment.字幕では、"体制側の者たちに告ぐ" "この素晴らしい新世界に諸君を迎え入れよう"なのだが、何とも甘美な響ではないか? 勿論、この甘ちゃんぶりにオルタモントの悲劇へと開かれた広い道を見出すのは容易い、が、しかし、この圧倒的な解放の一瞬を何に代えられようか!
We are happy and proud to have you in our brave new world.
それはともかく、"Brave New World"という言葉のHuman Be-Inでの使用は、恐らくシェイクスピア『テンペスト』のミランダの科白が木霊しているのだろう。
O, wonder!『知覚の扉』が流行していた時代背景からすると、当時の人には(客層からしても)、この科白も引用されているAldous Huxleyの同名小説(1932)が最も身近だっただろうが、皮肉にも、Aldous Huxleyの"Brave New World"は、優生学的な管理社会を扱った逆ユートピア小説で、"Soma"という副作用なしのお薬のお陰で、どの階級もみんな楽しい気分♪ なのだ。
How many goodly creatures are there here!
How beauteous mankind is! O brave new world,
That has such people in't!
(The Tempest (V, i))
ところで、字幕の日本語訳、"この素晴らしい新世界に諸君を迎え入れよう"はいいね。多分、通天閣上ってから、帰りに串カツでも食わしてくれるんだろう。確かに素晴らしい。
Nov 30, 2008
Thomas Vogelschreck / Otfried Preussler
『大どろぼうホッツェンプロッツ』や『クラバート』で知られるオトフリート・プロイスラーの"Thomas Vogelschreck"を、ただのカカシ目線の牧歌的な農村賛歌だと油断して読み進んでいたのだが、最終章の殆どヌーヴェル・ヴァーグといった唐突な幕切れに度肝を抜かれた。確かに中盤からカカシとしての生の限界にやけに拘るとは感じていたが、トーマスが熱望した自由はこんなはずじゃなかっただろう! 少なくともこんなふうに他者から抗いようもなく与えられるものではなかったはずだ。カカシは大空に憧れてはいけないのか、それとも、これが本当の幸せなのか……。全く以てやるせない。
Nov 18, 2008
青い花 / ノヴァーリス
ノヴァーリス『青い花』では、とりわけ、ほとばしる衝動で肝心な部分がクシュクシュっと折り畳まれてしまうその作品行為に心打たれる。興奮すると声が裏返って逆にマイクに乗らない『日本の仁義』の野坂昭如のようだ。ここではクライマックスは決して演出されるものではなく、寧ろ全ての演出をご破算にする。しかし、それはより高次なクライマックスなのかも知れない(うっかりすると読み飛ばしもするが……)。それはともかく、洞窟で見付けた未知の言語の本の挿絵で、自分自身の人生が書かれていることに気付いたり、恋人と出会った日に早速、川に吸い込まれた彼女が青い水の下で秘密の言葉を吹き込む夢を見たりと、今や典型的と言わざるを得ないイメージの中、久しぶりに「帰郷」のテーマ(これまた典型的な「帰郷」観)に直面する。
不思議にみちたあの花が目の前に浮かんで見え、青年はたったいま背にしたテューリンゲンを、奇妙な予感を抱いてふりかえった。自分はこれから向かっていく世界からの長い遍歴を終え、いつかまた故国へもどってくるだろう、つまり自分はそもそも故郷へ向かって旅をしているのだ、という気がしたのだ。この出発の際に提示される帰郷についての伏線が、いかに回収されるものなのか/されないものなのかは、未完ゆえ知る由もないが、こういう円環のイメージは教養小説に一般的なものなのだろうか? 取り敢えず『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を読み直してみようと思う。……それにしても、「思い出作り」の為に旅行に行くような、未来からの目線を意識した現在の消費は非常に現代的ではないか?
Nov 12, 2008
ENDING KISS / Tujiko Noriko
Tujiko Norikoの"ENDING KISS"は、分かり易く喩えるなら、Stina Nordenstamの"I Came So Far for Beauty"と"So Lee"とを足し合わせたものに、ゲルニカの「カフェ・ド・サヰコ」をふりかけたような名曲だと思う(最高に賞賛している、つもり……)。そして、Tujiko Noriko作品のご多分に漏れず、この曲の入ったアルバム『SOLO』も素敵な言葉に満ちているので、涙なしには聴けない。
電車に飛び乗る / セーフセーフ / どこへ行くかはすぐに思い出すつもりっ / とにかく口紅は完璧 / 地下鉄は行く地下鉄は行く ("NO ERROR IN MY MEMORY")なんて鳥肌が立つほど良い。私もどこへ行くかはすぐに思い出すつもりなのだが……。
Nov 5, 2008
かにふりかけ / 鳥取県
当方、幼少の時分よりふりかけを大いに好んだが、かつて旅先で何気なく購入した(恐らくご当地のものではない)「かにふりかけ」(昔から蟹に一切興味がないにも関わらず!)が殊の外旨く、以来、駅で土産の売り場を 見かけると / 棚に珍味のふりかけ 探すのさ、という悪習が身に付いた。……なんて、こんな戯れ言を漏らしているのも、今、唐突に、そして猛烈に「かにふりかけ」を食べたくなったからで、全く、問わず語りの / 心が切ないね。
Oct 14, 2008
はらぺこあおむし / エリック・カール
この定番作品に難癖を付けるつもりなど毛頭なく、いや、それどころか「どようび、あおむしの たべたものは なんでしょう。チョコレートケーキと アイスクリームと ピクルスと ……(p.17,18)」の見開きが見たくてしばしば項を繰るほど好きなのだが、通読するたびに浮かぶのは、他でもない、「最後の3ページって本当に必要?」という疑問だ。「……ちっぽけだった あおむしは、ほら、こんなに おおきくて、ふとっちょに なったのです。(p.21)」と「まもなく あおむしは、さなぎに なって なんにちも ねむりました。……(p.22)」が隣り合っているページを捲ると、もう「「あっ ちょうちょ!」あおむしが、きれいな ちょうに なりました。(p.23,24)」なのだから、如何にも早い。お~い、まだ心の準備が出来ていないよ~というものだ。この味気なさは、勿論、力点が「はらぺこ」におかれている証なのだろうが、そのくせ、ちょうちょになった最終ページはそれなりにゴージャスな見開きになっており、数多の変態譚の構造を踏襲している。しかし、既に読者は(恐らく作者も)「……ちっぽけだった あおむしは、ほら、こんなに おおきくて、ふとっちょに なったのです。(p.21)」のページで一度クライマックスを迎えているのだから、これは単なるアリバイにしかならない。これら全てが計算された構造ではなく(当然、それでも構わないのだが)、普通の変態譚を書こうとして、ついつい「はらぺこ」部分に興が乗ってしまった帰結だったとしたら、なんて素敵なことだろう!
Oct 9, 2008
文学部をめぐる病い / 高田里惠子
高田里惠子の本は、かねてより図書館で立ち読みしては戻し(さりとて借りず)を繰り返していたものだが、今回、長旅の列車で『文学部をめぐる病い』と『グロテスクな教養』を立て続けに読んだ。『文学部……』は「アウトサイダー(ただし自称)」という爽やかな罵倒用語に出会えただけでも大いなる収穫だと言える。また『グロテスク……』では、本題と関係ない上に孫引で申し訳ないが、『百年の誤読』という本から引用された豊崎由美の発言、「一行に二回ぐらいずつ<よりよく>って言葉が出てくる文章が延々と続くの。一、二ページで四十回近く出てきてる。まるで晩年の武者小路実篤のよう(笑)」に、必要以上に反応してしまう。当方、武者小路実篤に何の思い入れもないが、「武者小路実篤の反復」という紋切型を「晩年」から解放することによって、武者小路実篤を一気に消費し尽くせるのでは? という思いを強くする。早い話、彼は若い頃からずっとこうなのに、何でみんな晩年ばっかり取り上げるの! ってこと。(「お目出たき人 / 武者小路実篤」参照)。
Sep 8, 2008
alien / aoki takamasa + tujiko noriko
tujiko norikoの言葉がいい。「わたしは毎日ロケットを作る」に続けて、「わたしはロケットだ」と雪崩れ込む感覚に痺れる。……「コトバを連呼するとどうなるか」については、藤井貞和「枯れ葉剤」も言っていたではないか、「たいへんなことが起きる」のだ。
Sep 7, 2008
ビタミンパーラー / 富永食品
宝酒造が手を引いてから富永貿易に商標権が移ったとは聞いていたが、富永食品のビタミンパーラーをお店で見たのは初めてだった。2007年3月に出ていたというから1年半出会わなかった計算だが、お店の値札にもしっかりと「新商品」と書かれていた。かつて当方は、宝酒造終盤のビタミンパーラーが、初期の子供用風邪薬のような先鋭的な味から、口当たりの良いフルーツジュースに変化していると感じ、ブライアン・ジョーンズからジャガー/リチャードへ主導権が移ったローリング・ストーンズに喩えたものだが(何か違う気もする……)、今回の新ビタミンパーラーはますます爽快フルーティで、ここは既にハイドパークのコンサート以降なのだと決定的に思い知らされた。しかし、それでも/それだから、私はずっとビタミンパーラーを飲む。
Sep 2, 2008
Aug 18, 2008
Apr 19, 2008
Apr 18, 2008
植物園
Apr 7, 2008
Amsterdam / John Cale
花見客で賑わう城の桜の木の下で、albertine(←当方のi-podの名前)がいみじくもJohn Caleの"Amsterdam"を選曲した。"She's back from Amsterdam"と冒頭でアムステルダムから帰って来た彼女が、"She says she fell in love / With men who knew the way to treat a lady"ということになっており、"But I love her still / And need her company still more"な私は、"And I do believe the journey did her well"と未練がましくも繰り返すという歌。ゆるいフォークギターのカッティングと相まって、気怠い哀しみに満ちた調子に涙がこぼれそうになる。そもそも彼女はなぜアムステルダムなんかに行ってしまったのだろうか?
次に芋蔓式に自分で選曲したStina Nordenstamの"When Debbie's Back From Texas"はより繊細な歌で、恐らくDebbieはテキサスから帰って来ない。既に"You'll try to figure out What life would be without her"という状態では、"She'll answer you Like lovers do"と繰り返される願望(?)も、否、それ以前に"When Debbie's Back From Texas"という前提からして、自分自身でも最早信じてはいないだろう。
ベルンハルト・シュリンク『朗読者』の一文「同じ流れに二度身を任せることができないと知っていたギリシャ人たちにとって、帰郷など信じられないことだった。」から端を発した「帰郷」のテーマが、面白い方向に転がり始めている、と勝手に喜ぶ。
次に芋蔓式に自分で選曲したStina Nordenstamの"When Debbie's Back From Texas"はより繊細な歌で、恐らくDebbieはテキサスから帰って来ない。既に"You'll try to figure out What life would be without her"という状態では、"She'll answer you Like lovers do"と繰り返される願望(?)も、否、それ以前に"When Debbie's Back From Texas"という前提からして、自分自身でも最早信じてはいないだろう。
ベルンハルト・シュリンク『朗読者』の一文「同じ流れに二度身を任せることができないと知っていたギリシャ人たちにとって、帰郷など信じられないことだった。」から端を発した「帰郷」のテーマが、面白い方向に転がり始めている、と勝手に喜ぶ。
Mar 17, 2008
朗読者 / ベルンハルト・シュリンク
松永美穂訳繋がりでベルンハルト・シュリンクの『朗読者』を読む。「ぼくは当時『オデュッセイア』を再読していた。……帰郷の物語としてずっと記憶にとどめていた。しかし、それは帰郷の話などではなかった。同じ流れに二度身を任せることができないと知っていたギリシャ人たちにとって、帰郷など信じられないことだった。オデュッセウスはとどまるためではなく、またあらためて出発するために戻ってくる。『オデュッセイア』はある運動の物語にほかならない。」という文章で、え、帰郷の物語じゃなかったの? と、『オデュッセイア』が読みたくなる。シュリンク2006年の長編が"Die Heimkehr"『帰郷』であることを考えても、『オデュッセイア』には惹かれる。
Mar 12, 2008
お目出たき人 / 武者小路実篤
武者小路実篤の作品を長らく読んでいないことに気が付いた。読まない間も、山田風太郎や高橋源一郎の引用で何度か『ますます賢く』は目にしたが、それさえも随分前の話になる。
「僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。 / 人間もいくらか老人になったらしい、人間としては少し老人になりすぎたらしい。いくらか賢くもなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当の事はわからない。……」
と続くこの作品には、ご多分に漏れずクラクラしたものだ。今や武者小路実篤の代表作なのかも知れないこの文章を「老い」という範疇で片付けるのは容易いが、今回、著者26歳で発刊された『お目出たき人』を読んで、違った印象を受けることになった。阿川佐和子が解説で述べている「……たった二ページの間に五回も「自分は女に餓えている……」」と反復する手腕も素晴らしいが、
「自分はどうもたゞの空想家らしく思えていけない。何事も出来ず。これはと云う面白いこともせず。そうして天災で若死するような気がする。これも空想だろうと思うが、自分は雷か、隕石にうたれて死ぬような気がする。 / さもなければ肺病になって若死するかも知れない気がする。どうも自分はなが生しないような気がする。しかしそうかと思うとなが生出来そうな気もする、中々死にそうもないと思う。しかし天災、中でも雷と隕石があぶない。」
という文章はどうだろう? 例えば、前半「自分はどうも……死ぬような気がする」を赤で、後半「さもなければ……雷と隕石があぶない。」を青で印刷して、赤青眼鏡で眺めてみたら、何か立体が浮かびそうではないか……。つまり、われわれが二文(以上)を同時に読めるのならば、逡巡する思考がここに膨らみを持って現前するかも知れない。この混沌とした思考を、瞬間的な出来事だと読んでも、ここに書かれた順に時系列的に発生した出来事だと読んでも、この無邪気な実況中継ぶりは、最早心理描写の領分を越え、文章という装置の直線的・時間的な振る舞い(可能性? 限界?)を露わにしている。そしてこの文章表現に対する特異な告発が武者小路実篤の26歳と89歳の作品を繋いでいる。
「僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。 / 人間もいくらか老人になったらしい、人間としては少し老人になりすぎたらしい。いくらか賢くもなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当の事はわからない。……」
と続くこの作品には、ご多分に漏れずクラクラしたものだ。今や武者小路実篤の代表作なのかも知れないこの文章を「老い」という範疇で片付けるのは容易いが、今回、著者26歳で発刊された『お目出たき人』を読んで、違った印象を受けることになった。阿川佐和子が解説で述べている「……たった二ページの間に五回も「自分は女に餓えている……」」と反復する手腕も素晴らしいが、
「自分はどうもたゞの空想家らしく思えていけない。何事も出来ず。これはと云う面白いこともせず。そうして天災で若死するような気がする。これも空想だろうと思うが、自分は雷か、隕石にうたれて死ぬような気がする。 / さもなければ肺病になって若死するかも知れない気がする。どうも自分はなが生しないような気がする。しかしそうかと思うとなが生出来そうな気もする、中々死にそうもないと思う。しかし天災、中でも雷と隕石があぶない。」
という文章はどうだろう? 例えば、前半「自分はどうも……死ぬような気がする」を赤で、後半「さもなければ……雷と隕石があぶない。」を青で印刷して、赤青眼鏡で眺めてみたら、何か立体が浮かびそうではないか……。つまり、われわれが二文(以上)を同時に読めるのならば、逡巡する思考がここに膨らみを持って現前するかも知れない。この混沌とした思考を、瞬間的な出来事だと読んでも、ここに書かれた順に時系列的に発生した出来事だと読んでも、この無邪気な実況中継ぶりは、最早心理描写の領分を越え、文章という装置の直線的・時間的な振る舞い(可能性? 限界?)を露わにしている。そしてこの文章表現に対する特異な告発が武者小路実篤の26歳と89歳の作品を繋いでいる。
Mar 8, 2008
森のはずれで / 小野正嗣
小野正嗣の『森のはずれで』を読む。「妻が二人目の子供の出産のために実家に帰ったので、しばらく息子と二人きりで生活することになった」と冒頭一行でアリバイが揃うこの小説は、糸の切れた凧のように抑制を欠いた数多のマジックリアリズムと一線を画し、マジックとリアリズムの極めて曖昧な境界に留まり続けている。例えば「得体の知れない」片乳を出した老婆に「老婆はどことなく恥ずかしそうにうなずいた」を、一羽のメンドリを攻撃する「仲間のメンドリたち」に「庭の一部が、白いうねりとなって、うごめいていた」を与える。描写の対象への距離をいじるだけで、マジックもリアルにリアルもマジックになる、というより、そもそもマジックもリアルもなくて、そこには描写しかなかったことに気付かされる。
Feb 27, 2008
アルネの遺品 / ジークフリート・レンツ
ジークフリート・レンツの『アルネの遺品』を読む。「一家心中で一人だけ生き残った少年アルネは、父親の友人一家の新しい家族として迎えられる。けれども運命は彼にとってあまりに過酷だった。……」と扉の解説に早速書かれている通り、何ともいたたまれない物語で、「両親はぼくに、アルネの遺品を箱に詰めてくれないかと頼んだ。」と始まるこの小説は、遺品を見出すたびに在りし日のアルネがよみがえる、という体をなしている。しかし、注目しなければならない点は、アルネの思い出がほぼ時系列に並んでいるということで、間違っても終焉を引き寄せてしまう遺品を「ぼく」は初手から引いてしまったりはしない。「あの頃」を反芻する為には、遺品を箱に詰める順番だけでなく、父、妹、弟が部屋に入ってくる順番さえも、予め規定されていなければならないわけで、現在が過去を引き寄せるのではなく、過去が現在を引き寄せているのだ。
Feb 22, 2008
とばりを降ろせ、愛の夜よ / マルセル・ライヒ=ラニツキ
マルセル・ライヒ=ラニツキの『とばりを降ろせ、愛の夜よ』を読む。トーマス・マン、カフカ、ブレヒト、ムージル、デーブリーン、シュニッツラー、トゥホルスキーの「7人のパイオニア」について書かれたエッセイだ。現代ドイツの「文学の教皇」と聞いていたので、吉本隆明みたいなものかと想像していたが、なかなかどうして奥野健男のようだ。何というか下世話な感じが良い(……奥野健男って下世話だったっけ?)。とにかく、当節、この種の作者フェチっぷりは、かえってすがすがしいではないか。
「また、こんなことがあるとは。また、恋をするとは」とホテルのボーイについて書いた75歳のトーマス・マンの日記を引用し、「トーマス・マンの判断力はすでに曇っており」などと言いながら、仕舞いには「彼の恋愛体験はどれも彼の文学のなかに沈殿している」と締め括ってしまうライヒ=ラニツキを見ると、寧ろ、判断力を曇らしているのは、トーマス・マンの虜になったライヒ=ラニツキ自身ではないかと思えてしまう。引用された日記からは、トーマス・マンの「恋愛体験」が逆にトーマス・マン「文学」のまねをしているだけなのでは? という印象を受けるからだ。久しぶりにトーマス・マンが読みたくなる。
「また、こんなことがあるとは。また、恋をするとは」とホテルのボーイについて書いた75歳のトーマス・マンの日記を引用し、「トーマス・マンの判断力はすでに曇っており」などと言いながら、仕舞いには「彼の恋愛体験はどれも彼の文学のなかに沈殿している」と締め括ってしまうライヒ=ラニツキを見ると、寧ろ、判断力を曇らしているのは、トーマス・マンの虜になったライヒ=ラニツキ自身ではないかと思えてしまう。引用された日記からは、トーマス・マンの「恋愛体験」が逆にトーマス・マン「文学」のまねをしているだけなのでは? という印象を受けるからだ。久しぶりにトーマス・マンが読みたくなる。
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