Jan 28, 2012

「此不自由なところが日本だとうれしがりけり」(山東京伝『江戸生艶気樺焼』について-前篇-)

これを越える漫画が果たしていくつあるだろうか、という素晴らしい完成度の黄表紙、山東京伝(政演)画作の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』天明五(1785)年刊 通油町蔦屋重三郎板)を紐解き、
「此不自由なところが日本だとうれしがりけり」
との一節に目が留まる。主人公の艶二郎が、たいこ医者 (*1) のわるゐ志庵に、浮名という女郎をわざわざ揚げづめにさせて、自分は新造買い(表向きは新造を買い、その姉女郎とひそかに逢う)にて逢うという粋狂な遊びをしての感想であり、『日本古典文学全集 46 黄表紙 川柳 狂歌』(小学館)の頭注によれば、「日本」とは「このころの流行語で、日本一、最上。」とのことだが、そんなことはどうでも良くて、やはり、今日的な意味での「此不自由なところが日本だとうれしがりけり」と洒落込みたい。

 それはさておき、
「百万両分限のひとり息子の艶二郎が、醜い容貌にもかかわらず、うぬぼれが強くて色男を気どり、女にもてよう、世間に艶名をうたわれようと、だいそれた望みをおこし、金にあかしてあらゆる愚行をした果てに、にせ心中をしようとしたが、向島での道行きの途中、覆面した番頭に妨げられて失敗し、やっと目がさめて身をかためるという筋である」
と解説されているこの『江戸生艶気樺焼』だが、艶二郎がうぬぼれたのは、「ヲヤ鳥羽絵のやうな顔のひとが通る。みんな来てみなせい」と女に言われて、「また惚れたそふだ。色男もうるさいぞ」と誤解した時くらいで、いや、その時すら、実はわざと誤解しているのではないかという節もあり、これは、基本的には、自分がもてないことを知りながら、想像上の色男を、金をふんだんに使ってなぞっていく作業に徹する話だと言える。それは、少しばかり大掛かりな性的ロールプレイみたいなものだったのだ。(……ここから安直にコスプレ文化にこじつける愚は犯すまい)。

 しかし、この「恋愛プレイ」は決して穏やかな遊びではなく、例えば、「役者・女郎などの心意気にて、回向院道了の開帳へ、提灯を奉納せんと思ひ」、艶二郎が紋入りの提灯を「ずいぶん目にたつやうに奉納」する際の、「もちろん何の願もなけれども」という一文などは大いに笑ったのだが、しかし、では、本家本元の役者・女郎衆に如何ほどの願があったのか、という話にもなろうし、また、焼餅をやいてもらうために抱えた妾との会話、
艶二郎「はづかしいこつたが、うまれてから初めて、焼餅をやかれてみる。どふもいへねへ心持だ。もちつとやいてくれたら、てめへがねだつた八丈と縞縮緬をかってやらふ。もちつとたのむたのむ」
妾「このあとは、八丈と縞縮が来てのことさ」
というくだりもお約束で噴き出してしまうのだが、じゃあ、そもそも「本物の」焼餅って何だ? という感慨を抱くわけで、これは正に、綿密に対象(この場合は「恋愛」)の表層をなぞらえて「プレイ」することによって、複製の純度がオリジナルを越え、今や、艶二郎の純粋な行為は「恋愛」よりも「恋愛」らしくなり、どうやら現実に繰り広げられているらしい素敵な「恋愛」とやらを糾弾するわけで、凡庸な結論で申し訳ないが、一先ず、これは、非常に洗練された「うがち」ということになろう。(つづく

(*1) たいこ医者:すごい言葉! マルセル・プルースト『失われた時を求めて』のコタール医師もこの類か? 頭注に記された「進んではたいこ退いては藪医」(柳多留拾遺五・3)という句も面白い。

Jan 24, 2012

ぐりとぐらの見分けかたn°2「ほくろ」

承前)だがしかし、「ぐりはいつも青、ぐらはいつも赤」という服の色以外でぐりとぐらを見分けることは可能だろうか? 
 そもそも、「青いほうがぐりで赤いほうがぐら」と、これまで何気なく服の色で識別して来たこと自体酷い話なのであって、喩えて言うなら、桃色だから林家ペー・パー子、サングラスをかけているから澁澤龍彦、と決め付けるようなものだ。この伝では林家ペーと林家パー子の区別はどうやっても付かないし、野坂昭如も澁澤龍彦になってしまう。
 それに、いつだって青がぐり・赤がぐらなら、ピンキーとキラーズの「恋の季節」に出て来る「あの人」は「ぐり」、「四国辺のある中学校」の「わんわん鳴けば犬も同然な(夏目漱石『坊っちゃん』)」あの教頭は「ぐら」と、枚挙に暇がない。



 しかし、それにしても、夜明けのコーヒーふたりで飲む前には「裸だったから分かりませんでした」では済まされない事情もある。前述した「Y・Y氏」の証言によれば、ぐりとぐらが「入れ替わってお互いのふりをしていないとは限らない(福音館書店母の友編集部編『ぼくらのなまえはぐりとぐら 絵本「ぐりとぐら」のすべて。』p.50)」のだから、仕草や声色まで似せている可能性は否めないが、少なくとも「ぐり的なもの」と「ぐら的なもの」という程度の差異は存在するはずだ、……と、調停委員でなくても疑う必要があろう。例えば、ぐりの背中に桜吹雪、ぐらの左の乳のすぐかたわらに三つの黒子でもあれば、お白州の悪党どもにも一目瞭然だし、本多も間違った養子縁組をせずに済むわけで(三島由紀夫『天人五衰 ―豊饒の海・第四巻―』)、速やかに「これにて一件落着」となるのだが、比較的肌が露出している『ぐりとぐら』(ズボンのみ)『ぐりとぐらのかいすいよく』(水着)『ぐりとぐらとくるりくら』(ズボンのみ)『ぐりとぐらとすみれちゃん』(ズボンのみ)をつらつら眺めても、気になる点は、またしても、異色の最高傑作『ぐりとぐらとくるりくら』くらいで、例えばp.17のぐりの背中に五・六個、ぐらの背中に二・三個見える濃淡の強い色むら、これは一体何か! というところなのだが、やはり、これをほくろと呼ぶなら、牽強付会の謗りは免れまい。
 今のところ、彫り物や黒子の描写は「ぐりとぐら」シリーズ全作を通して、絵にも文にも見当たらないようである。いよいよ困った。(つづく

Jan 12, 2012

増補 民族という虚構 / 小坂井敏晶

この本で繰り広げられる論議については、既に「はじめに」で、くっきりと輪郭を描かれている。
民族同一性は虚構に支えられた現象だという主張を本書は一貫して展開してゆく。そのことはしかし、民族が現実の力を行使しないことを意味するのではない。虚構と現実とが相反するという常識がそもそも問題視されねばならない。
 (…)
 そしてさらには、虚構であるにもかかわらず現実を生み出すという消極的な発想から、もう一歩踏み込んで、実は虚構のおかげで現実が生成されるというように、虚構と現実を結びつけている積極的な相補性を明らかにしよう。
(小坂井敏晶『増補 民族という虚構』p.005-006)
と、このような方向付けのもと、「民族」を直接的な題材にして虚構の姿を追い続け、生物学、心理学、社会学など幅広い領域に渡って丁寧に検討していくのだが、当方にとって最も印象深かった例―まず衝撃を受け、やがてじわじわと得心していった例―は、下記のHenri Tajfelのものだった。
(…)例えば、硬貨を投げて裏が出るか表が出るかによって無作為に選ばれた半数の被験者を「紅組」と名付け、残りの半数を「白組」と呼ぶだけで、各被験者は自らが属する組をひいきにする。(…)
 ここで我々の関心にとって大切な点は、自分の組の利益を最大にする意図よりも、自他の差を最大にする動機から差別が生まれる事実だ。例えば自分の組の構成員がそれぞれ一〇〇〇円を獲得し、相手の組の構成員が八〇〇円得る状況Aと、自分の組の人々が五〇〇円を手に入れ、相手の組の人々が二〇〇円もらう状況Bのどちらかを選択できる場合、状況Aよりも状況Bを好む、すなわち、自らの組が損をしてでも他の組との差が大きくなるような選択をするのである。
(同上p.036-037 , 原注(21) H. Tajfel (Ed.), Differentiation between Social Groups: Studies in the Social Psychology of Intergroup Relations, Academic Press, 1978.)
ところで、「補考」として2011年発行のこの文庫に付け加えられた「虚構論」では、これまで切り口として来た虚構そのものが俎上に載って、駆け足ではあるものの論議は「世界が合理的に進行するならば、時間は消失する。そして、合理性からの逸脱が意味を生む」に至る。そこには虚構をめぐった緻密で息の長い探求の現在が垣間見え、思考は勢い壮大の色を帯びて来ているようで、『民族という虚構』、『責任という虚構』につづく、いや、もしかするとそれらをも包括する、次なる『虚構』への期待が膨らむ。

Jan 2, 2012

ぐりとぐらの見分けかたn°1「証言」

青いほうがぐりで赤いほうがぐらなのは当たり前の常識で、福音館書店母の友編集部編『ぼくらのなまえはぐりとぐら 絵本「ぐりとぐら」のすべて。』p.50-55「「ぐりとぐら」の世界をのぞいてみれば。」の「ぐりとぐら」の項、
ぐりとぐら
ふたごの兄弟の野ねずみ。いつも色違いのおそろいの服を着ている。ぐりはいつも青、ぐらはいつも赤なので、たやすく見分けがつく。(…)
(福音館書店母の友編集部編『ぼくらのなまえはぐりとぐら 絵本「ぐりとぐら」のすべて。』p.50)
などわざわざ引くまでもないのだが、同書のこれに続く一文が証言する、柔軟な思考、というよりも常軌を逸した懐疑に不意を突かれ膝がかっくんとなる。すなわち、
(…)ただ、ふたりをよく知るY・Y氏によると、ある日、入れ替わってお互いのふりをしていないとは限らない、とのこと。
(同上)
であり、「Y・Y氏」が作者の一人、山脇百合子氏でないことを祈りたいが、「ぐりはいつも青、ぐらはいつも赤」という我々の学習が揺さぶりをかけられているわけで、これまでそんなことは思いも寄らなかったのに、一度疑い出したら、ぐりの面をかぶったぐらや、ぐらの面をかぶったぐりが跋扈する同一性のぐらつき(ぐりつき?)に軽い眩暈がする。青いことを確かめて、ぐりと寝たつもりが、実はぐらだった、では如何にも都合が悪かろう、ほとんど、Audrey Niffeneggerの"Her Fearful Symmetry"の世界ではないか! ("Her Fearful Symmetry"はもっとややこしいが……)。ぐり ぐら ぐり ぐら。(つづく