われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに? だが決して奥へ、あるいは底へではない。人と人が一つの場所を巡って競り合う時というのは、ある軌道と他の軌道が接近・交差した時であり、その際、平面上を滑る直線の正しく「幅」だけが問題なのだ。これは太い筆を使うか、細い筆を使うか、という選択に似ている。(宮川淳「ルネ・マグリットの余白に」
小沢書店『紙片と眼差とのあいだに』p.12)
「I see a red door and I want it painted black (The Rolling Stones “Paint It, Black”)」と不意に気持ちが盛り上がっても、手元に面相筆しかないと、赤いペンキをたっぷり吸った刷毛には太刀打ち出来ない(皮肉なことに、Procreateを使って、iPad上で絵を描いている時ほど、筆に意識が行く。現実のパレットと筆では、平筆を持っているつもりで描き始めたら6Bの鉛筆を構えていた、というような事件は頻繁に起こらないからだろう)。
閑話休題、「幅」だけが人間の社会的な存在の量を測る尺度であり、逆に「体積」はその代用特性値に過ぎないのかも知れない。……だが「幅」とは何か? 「幅を利かす」とは一体どういう所業なのだろうか?
限りある質量(エネルギー)で最大限「幅を利かす」方法を考えてみよう。まずは比重を下げて体積を上げる(希薄化)という膨張作戦が物理的に可能だろう(増長)。しかし、これには自己拡散のリスクが付きまとう。
次に思い浮かぶのは、些か小手先の感が拭えないが、丈や奥行を詰め、全ての資源を「幅」に回すことだ。……ちょっとその状態を想像してみたら、山上たつひこ『がきデカ』が脳裏を過ぎったのだが、確かに、こまわり君なら、丈・奥行ともに申し分ない切り詰め方だろう。どの角度から見ても「表面」になっていて、気分はもうタブロー。「平面」ではなくて、あくまでも「表面」だ。
(…)表面とはなんであるのか。いうまでもなく、それは平面ではない。一方において、表面とは平面か立体かという関係をこえる、あるいはその外にあるなにものかである。平面や立体が存在するという意味では表面は存在しない。敷居を跨げば、みんなタブロー。存在論なんて――体積も、面積も全部ひっくるめて――眼中にない。人間の社会的な存在の量を測る尺度……いや、もはや「存在の量」なんて屁の河童、人間の社会的な「幅」とは、美術に関係する問題なのである。(同p.15)
鏡のたわむれの中で、人は無限に表面にいる。ところで、「貫禄」という言葉は、ストレートに人間の質量(エネルギー)を評価していて、野性味のあるいい言葉だと思う。(同p.12-13)