「ちいさなかがくのとも」でバックナンバー品切れ中だった小野寺悦子 ぶん 堀川理万子 え の『あーと いってよ あー』が、2015年5月15日に「幼児絵本ふしぎなたねシリーズ」として第1刷発行されたよ あー。(昔、愛と平和のためにおすすめしたよ あー:「あーと いってよ あー / 小野寺悦子 ぶん 堀川理万子 え」)。
May 28, 2015
虎尾
しばらく前に花田清輝の『復興期の精神』と『もう一つの修羅』を読み返したばかりだったので、ゆくりなくも立ち寄った地方都市の美術館で黒田清輝の絵画を目にするやいなや、あれ? もしかして、この人、花田清輝と一文字違いでは? と、近代日本美術の根底を揺るがしかねない大発見をしてしまったのだった。インスピレーションと申しますか、運命とは実に摩訶不思議である。もちろん、どんな絵だったかはすっかり忘れたのだが、何でも、顔か何かが描かれていたような気がしていて、はてさて……と、これはまあ冗談で、山梨県立美術館の特別展『夜の画家たち ~蝋燭の光とテネブリスム~』で、黒田清輝の《レンブラント作《羽根帽子をかぶった自画像》模写》を観てその名前に虚を突かれつつ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《煙草を吸う男》と山本芳翠《灯を持つ乙女》では、蓮實重彦の『赤の誘惑 ――フィクション論序説』の「Ⅳ 少壮歴史家の書斎で」における「火を点す女」の一節を想起したりもしたのだった。
実際、『かのように』は、薄暗がりの中に「ぼうっと明るくなっては、また微かになって」ゆく小さな「赤」の誘惑によって始まっている。
(蓮實重彦『赤の誘惑 ――フィクション論序説』新潮社p.106)
「朝小間使の雪が火鉢に火を入れに来た時」という一行で始まる『かのように』は、まさに「火を点す女」としての小間使いの役割を無視しては読みえない作品である。……というか、まず、この展覧会自体が『赤の誘惑』に誘われたのではないかとさえ思われたのだが、そんなことよりもっとずっと大事な話をしよう。何と、七尾さんという方がいるらしいのである。え? 長尾さん? とはしたなくも聞き返してしまったのだが、いいえ、七尾さん、と言う。八尾さんという苗字は、実際にお会いしたことはないものの耳にしたことがあったが、七尾さんは尾が一本足りないのが少し心配で、いや、その前に、八尾さんにしたところで、歯ブラシ生産量日本一でお馴染み大阪府八尾市からの連想に過ぎず、実在するかどうかは不明だし……と問題は山積していたわけだが、最大の文化人類学的課題は、七つの尾というのは如何なる主題を秘めているものか、という点に尽きた。九尾の狐、八岐大蛇はご案内の通りだが、「七」とは一体何か? ……初期小説「七」? またしても花田清輝ではないか! とか何とか、まあ、考えるのが急に面倒臭くなったので、私は、腰をもぞもぞさせながらMadame Verdurin(当方のiPhoneの名前)を取り出すと、いそいそとGoogleで検索をかけたのだった。すると、何のことはない、石川県に七尾市という都市があるという。そして、Wikipediaによれば、「『七尾』の名称の由来は、七尾城のあった山(通称・城山)の7つの尾根(菊尾、亀尾、松尾、虎尾、竹尾、梅尾、龍尾)からと言われる。」とのこと。ねえねえ、どの尾にする? 僕は虎尾かなあ。何か恰好良いじゃん! ……ということで、〆の花田清輝。
(同p.107)
『家畜系統史』のなかで、ケルレルは、豚にもまた、まったく知性がないわけではないと断じ、その証拠として、ルイ十一世が、風笛の音につれて踊ることをおぼえた子豚のむれをみてたのしむのをつねとした、という事実をあげているが、マザー・グースの歌を連想させる、この無邪気さと奇怪さとのいりまじった古めかしい舞踏図は、我々をして、豚の知性にたいしてよりも、むしろ、ルイ十一世の知性にたいして、いっそう多くの興味をいだかせる。
(「動物記――ルイ十一世」花田清輝『復興期の精神』講談社文芸文庫p.209)
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