Sinéad O'Connorの“Nothing Compares 2U”と、Stina Nordenstamの“Purple Rain”という2曲のPrinceのカバー曲に落涙しつつ、オリジナルも素晴らしいこれらの曲が、なぜこんなに美しく仕上がっているのかとふと思う。Sinéad O'ConnorとStina Nordenstamの二人とも、装飾を削ぎ落し、声の魅力を前面に出していて、Princeが華々しいフレーズで覆い隠した哀しみに満ちたメロディを、彼の密やかな線の細さを、浮き彫りにしているからだろうか。……Princeは哀し。
▲ Sinéad O'Connor - Nothing Compares 2U
▲ Prince - Nothing Compares 2U
▲ Stina Nordenstam - Purple Rain
▲ Prince - Purple Rain
Oct 15, 2020
Venus in the Morning / Mayo Thompson
“Venus in the Morning”は、Red Crayolaのリーダー、Mayo Thompsonの1970年のソロアルバム≪Corky's Debt to His Father≫の5曲目。たとえるなら、野原のDepeche Mode "Personal Jesus"なのだが、町内会の盆踊りのようなドラムが郷愁を誘い、
She couldn't refuse.
She kicked off her shoes.
She was ready for romance.
となるのも無理はないと思えるのである。
▲ Mayo Thompson - Venus in the Morning
▲ Depeche Mode - Personal Jesus
▲ Mayo Thompson - Venus in the Morning
▲ Depeche Mode - Personal Jesus
Sep 15, 2020
Mournin’ Glory Story / Harry Nilsson
"Will tomorrow be the same as yesterday"("Mournin' Glory Story", Harry Nilsson, «Harry»)
私のモットーは「現状維持」であり、常日頃から、兎に角、今よりも悪くならないことだけを願っているのだが、「現状維持」とは、勿論、自然に任せるという「状態」のことではなくて、むしろ、自然に逆らうマクスウェルの悪魔のような「作業」に他ならない。
いや、そんな無益な苦労話はどうでも良い。涙ぐましくも夢も希望もない、しかし、安逸な日々の果てに、私はただただHarry Nilssonの1969年の4枚目のアルバム《Harry》の7曲目"Mournin' Glory Story"の美しい哀しみを耳にしつつ眠るのである。
さて、Harry Nilssonの伝記を紐解くなら、銀行のコンピュータープログラマーだったこと、John Lennonの飲み友達だったこと、喉を傷めたこと……などなどたちまち起伏に富んだ神話的世界に迷い込むことも出来るのだが、その逍遥は他日に譲り、今はただこの繊細な音楽の流れに身を任せよう。そう言えば、アルバム《Aerial Ballet》(1968年)(なんと素敵なアルバム名なのか!)の” I Said Goodbye To Me”も好きだな。
Aug 15, 2020
体積批判:「ルネ・マグリットの余白に」の余白に
映画館の肘かけを例に取るまでもなく、二つの物体が同じ一つの位置を占めることは出来ない。だから、体積が人間の社会的な存在の量を測る尺度になる。「幅を利かす」「顔が広い」「太っ腹」……これらの慣用句は、直接的には長さや面積を評価している場合であっても、恐らくは体積の代用特性値として用いているはずだ。……と漠然と考えていたが、もしかすると、人は体積など全く見(え)ていないのかも知れない、そして、面積さえも。
閑話休題、「幅」だけが人間の社会的な存在の量を測る尺度であり、逆に「体積」はその代用特性値に過ぎないのかも知れない。……だが「幅」とは何か? 「幅を利かす」とは一体どういう所業なのだろうか?
限りある質量(エネルギー)で最大限「幅を利かす」方法を考えてみよう。まずは比重を下げて体積を上げる(希薄化)という膨張作戦が物理的に可能だろう(増長)。しかし、これには自己拡散のリスクが付きまとう。
次に思い浮かぶのは、些か小手先の感が拭えないが、丈や奥行を詰め、全ての資源を「幅」に回すことだ。……ちょっとその状態を想像してみたら、山上たつひこ『がきデカ』が脳裏を過ぎったのだが、確かに、こまわり君なら、丈・奥行ともに申し分ない切り詰め方だろう。どの角度から見ても「表面」になっていて、気分はもうタブロー。「平面」ではなくて、あくまでも「表面」だ。
われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに? だが決して奥へ、あるいは底へではない。人と人が一つの場所を巡って競り合う時というのは、ある軌道と他の軌道が接近・交差した時であり、その際、平面上を滑る直線の正しく「幅」だけが問題なのだ。これは太い筆を使うか、細い筆を使うか、という選択に似ている。(宮川淳「ルネ・マグリットの余白に」
小沢書店『紙片と眼差とのあいだに』p.12)
「I see a red door and I want it painted black (The Rolling Stones “Paint It, Black”)」と不意に気持ちが盛り上がっても、手元に面相筆しかないと、赤いペンキをたっぷり吸った刷毛には太刀打ち出来ない(皮肉なことに、Procreateを使って、iPad上で絵を描いている時ほど、筆に意識が行く。現実のパレットと筆では、平筆を持っているつもりで描き始めたら6Bの鉛筆を構えていた、というような事件は頻繁に起こらないからだろう)。
閑話休題、「幅」だけが人間の社会的な存在の量を測る尺度であり、逆に「体積」はその代用特性値に過ぎないのかも知れない。……だが「幅」とは何か? 「幅を利かす」とは一体どういう所業なのだろうか?
限りある質量(エネルギー)で最大限「幅を利かす」方法を考えてみよう。まずは比重を下げて体積を上げる(希薄化)という膨張作戦が物理的に可能だろう(増長)。しかし、これには自己拡散のリスクが付きまとう。
次に思い浮かぶのは、些か小手先の感が拭えないが、丈や奥行を詰め、全ての資源を「幅」に回すことだ。……ちょっとその状態を想像してみたら、山上たつひこ『がきデカ』が脳裏を過ぎったのだが、確かに、こまわり君なら、丈・奥行ともに申し分ない切り詰め方だろう。どの角度から見ても「表面」になっていて、気分はもうタブロー。「平面」ではなくて、あくまでも「表面」だ。
(…)表面とはなんであるのか。いうまでもなく、それは平面ではない。一方において、表面とは平面か立体かという関係をこえる、あるいはその外にあるなにものかである。平面や立体が存在するという意味では表面は存在しない。敷居を跨げば、みんなタブロー。存在論なんて――体積も、面積も全部ひっくるめて――眼中にない。人間の社会的な存在の量を測る尺度……いや、もはや「存在の量」なんて屁の河童、人間の社会的な「幅」とは、美術に関係する問題なのである。(同p.15)
鏡のたわむれの中で、人は無限に表面にいる。ところで、「貫禄」という言葉は、ストレートに人間の質量(エネルギー)を評価していて、野性味のあるいい言葉だと思う。(同p.12-13)
Jul 15, 2020
質量
かねてよりダイエットやランニングという種類の自己への配慮は些か病的だと思っていたが、少し前から、一日一回太陽を浴びたいというのと、適度に疲れてから一日を始めたいという、より病的な理由で、時々、朝に15分間、3kmを走るようになった。
これが2020年3月頃より毎朝の活動として定着し、1ヶ月ほど経った4月半ば、ふとベルトのゆるみから、自らのこの世界に占める体積の減少に気付いたのだった。ベルトのゆるみは心のゆるみ。「幅を利かす」という言葉からも窺い知れるように、体積とは、人間の社会的な存在の量を測る尺度に他ならない。――良いだろう、こうやって社会的に小さくなっていくのも。
しかし、質量はどうか? ひょっとすると質量も減っているのではないか? 質量とは、エネルギーに他ならず(cf. E=mc2)、自然界における存在の量を測る尺度であって、これが小さくなるのはやや困る気がしたので、勢いをつけて体重計に飛び乗った。……うむ、元が分からないから、質量が減ったのかどうかも分からない。
そんなわけで、何となくその日から毎日体重を記録することになった――しかし、記録とは人間の取り得る最も病的な仕草のひとつではなかったか? ――のだが、6月末時点で眺めると、グラフは右肩下がりの直線上にほぼ乗り、大体2週間で1㎏のペースで低下している。このまま行くと後2年数ヶ月で質量が0になるだろう。これぞ、自己消滅。
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