Nov 15, 2020

Princeは哀し

Sinéad O'Connorの“Nothing Compares 2U”と、Stina Nordenstamの“Purple Rain”という2曲のPrinceのカバー曲に落涙しつつ、オリジナルも素晴らしいこれらの曲が、なぜこんなに美しく仕上がっているのかとふと思う。Sinéad O'ConnorとStina Nordenstamの二人とも、装飾を削ぎ落し、声の魅力を前面に出していて、Princeが華々しいフレーズで覆い隠した哀しみに満ちたメロディを、彼の密やかな線の細さを、浮き彫りにしているからだろうか。……Princeは哀し。

▲ Sinéad O'Connor - Nothing Compares 2U

▲ Prince - Nothing Compares 2U

▲ Stina Nordenstam - Purple Rain

▲ Prince - Purple Rain

Oct 15, 2020

Venus in the Morning / Mayo Thompson

“Venus in the Morning”は、Red Crayolaのリーダー、Mayo Thompsonの1970年のソロアルバム≪Corky's Debt to His Father≫の5曲目。たとえるなら、野原のDepeche Mode "Personal Jesus"なのだが、町内会の盆踊りのようなドラムが郷愁を誘い、
She couldn't refuse.
She kicked off her shoes.
She was ready for romance.
となるのも無理はないと思えるのである。


▲ Mayo Thompson - Venus in the Morning


▲ Depeche Mode - Personal Jesus

Sep 15, 2020

Mournin’ Glory Story / Harry Nilsson

"Will tomorrow be the same as yesterday"
("Mournin' Glory Story", Harry Nilsson, «Harry») 
 私のモットーは「現状維持」であり、常日頃から、兎に角、今よりも悪くならないことだけを願っているのだが、「現状維持」とは、勿論、自然に任せるという「状態」のことではなくて、むしろ、自然に逆らうマクスウェルの悪魔のような「作業」に他ならない。

 いや、そんな無益な苦労話はどうでも良い。涙ぐましくも夢も希望もない、しかし、安逸な日々の果てに、私はただただHarry Nilssonの1969年の4枚目のアルバム《Harry》の7曲目"Mournin' Glory Story"の美しい哀しみを耳にしつつ眠るのである。

 

 さて、Harry Nilssonの伝記を紐解くなら、銀行のコンピュータープログラマーだったこと、John Lennonの飲み友達だったこと、喉を傷めたこと……などなどたちまち起伏に富んだ神話的世界に迷い込むことも出来るのだが、その逍遥は他日に譲り、今はただこの繊細な音楽の流れに身を任せよう。そう言えば、アルバム《Aerial Ballet》(1968年)(なんと素敵なアルバム名なのか!)の” I Said Goodbye To Me”も好きだな。

Aug 15, 2020

体積批判:「ルネ・マグリットの余白に」の余白に

映画館の肘かけを例に取るまでもなく、二つの物体が同じ一つの位置を占めることは出来ない。だから、体積が人間の社会的な存在の量を測る尺度になる。「幅を利かす」「顔が広い」「太っ腹」……これらの慣用句は、直接的には長さや面積を評価している場合であっても、恐らくは体積の代用特性値として用いているはずだ。……と漠然と考えていたが、もしかすると、人は体積など全く見(え)ていないのかも知れない、そして、面積さえも。
われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに? だが決して奥へ、あるいは底へではない。
(宮川淳「ルネ・マグリットの余白に」
小沢書店『紙片と眼差とのあいだに』p.12)
人と人が一つの場所を巡って競り合う時というのは、ある軌道と他の軌道が接近・交差した時であり、その際、平面上を滑る直線の正しく「幅」だけが問題なのだ。これは太い筆を使うか、細い筆を使うか、という選択に似ている。

 

「I see a red door and I want it painted black (The Rolling Stones “Paint It, Black”)」と不意に気持ちが盛り上がっても、手元に面相筆しかないと、赤いペンキをたっぷり吸った刷毛には太刀打ち出来ない(皮肉なことに、Procreateを使って、iPad上で絵を描いている時ほど、筆に意識が行く。現実のパレットと筆では、平筆を持っているつもりで描き始めたら6Bの鉛筆を構えていた、というような事件は頻繁に起こらないからだろう)。

閑話休題、「幅」だけが人間の社会的な存在の量を測る尺度であり、逆に「体積」はその代用特性値に過ぎないのかも知れない。……だが「幅」とは何か? 「幅を利かす」とは一体どういう所業なのだろうか?

限りある質量(エネルギー)で最大限「幅を利かす」方法を考えてみよう。まずは比重を下げて体積を上げる(希薄化)という膨張作戦が物理的に可能だろう(増長)。しかし、これには自己拡散のリスクが付きまとう。
次に思い浮かぶのは、些か小手先の感が拭えないが、丈や奥行を詰め、全ての資源を「幅」に回すことだ。……ちょっとその状態を想像してみたら、山上たつひこ『がきデカ』が脳裏を過ぎったのだが、確かに、こまわり君なら、丈・奥行ともに申し分ない切り詰め方だろう。どの角度から見ても「表面」になっていて、気分はもうタブロー。「平面」ではなくて、あくまでも「表面」だ。
(…)表面とはなんであるのか。いうまでもなく、それは平面ではない。一方において、表面とは平面か立体かという関係をこえる、あるいはその外にあるなにものかである。平面や立体が存在するという意味では表面は存在しない。
(同p.15)
敷居を跨げば、みんなタブロー。存在論なんて――体積も、面積も全部ひっくるめて――眼中にない。人間の社会的な存在の量を測る尺度……いや、もはや「存在の量」なんて屁の河童、人間の社会的な「幅」とは、美術に関係する問題なのである。
鏡のたわむれの中で、人は無限に表面にいる。
(同p.12-13)
ところで、「貫禄」という言葉は、ストレートに人間の質量(エネルギー)を評価していて、野性味のあるいい言葉だと思う。

Jul 15, 2020

質量

かねてよりダイエットやランニングという種類の自己への配慮は些か病的だと思っていたが、少し前から、一日一回太陽を浴びたいというのと、適度に疲れてから一日を始めたいという、より病的な理由で、時々、朝に15分間、3kmを走るようになった。
これが2020年3月頃より毎朝の活動として定着し、1ヶ月ほど経った4月半ば、ふとベルトのゆるみから、自らのこの世界に占める体積の減少に気付いたのだった。ベルトのゆるみは心のゆるみ。「幅を利かす」という言葉からも窺い知れるように、体積とは、人間の社会的な存在の量を測る尺度に他ならない。――良いだろう、こうやって社会的に小さくなっていくのも。
しかし、質量はどうか? ひょっとすると質量も減っているのではないか? 質量とは、エネルギーに他ならず(cf. E=mc2)、自然界における存在の量を測る尺度であって、これが小さくなるのはやや困る気がしたので、勢いをつけて体重計に飛び乗った。……うむ、元が分からないから、質量が減ったのかどうかも分からない。
そんなわけで、何となくその日から毎日体重を記録することになった――しかし、記録とは人間の取り得る最も病的な仕草のひとつではなかったか? ――のだが、6月末時点で眺めると、グラフは右肩下がりの直線上にほぼ乗り、大体2週間で1㎏のペースで低下している。このまま行くと後2年数ヶ月で質量が0になるだろう。これぞ、自己消滅。 

Oct 21, 2018

ボルネオオランウータン(Pongo pygmaeus

2017年5月、私は密かに数匹のオランウータンと逢って来た。マレー語でorang [オラン] は「人」、hutan [フタン] は「森」で、「森の人」とはいみじくも言ったもの、もう殆ど人である。思わず挨拶しそうになった。相手は何か変な紐にぶら下がっていたのだが……。

「森の人」と聞くと、Monty Pythonの「Lumberjack Song」が頭に浮かぶ。


I cut down trees, I eat my lunch
I go to the lavatory
という感じ。

……と、ここまで書かれた反古を頼まれもしないのに引っ張り出して来たのは、この頃(2018年10月)、豊島与志雄の「オランウータン」という作品に触れ、ふとかつての森の哲人どもとの邂逅を懐かしんだことによる。お金を使わずに幸せになろう(フトモモ科(Myrtaceae)参照)という日常の心がけとは無縁に、ある日突然、本が入手困難な土地で、どうしても泉鏡花が読みたくなったことから、青空文庫に、やがて、Project Gutenbergに再びお世話になり始めたのが事の起こりで、豊島与志雄、紙の本では一度も読んだ記憶がなく、確か太宰治関連人物という認識しかなかったが、お陰様でお金を使わずに気散じな一時を過ごすことが出来た。
随分昔の記憶によれば、Project Gutenbergはともかく、青空文庫は、図書館の書庫のような存在だったが、知らぬ間に、書店での立ち読みのような存在に変わったという印象で、量的な変化が質的な変化をもたらしたのだろうか? それとも、いや、私にとって、書店よりも図書館が、図書館よりも青空文庫が、相対的にパトロールし甲斐のある場所となりつつあり、これは偏に年のせいなのかも知れない。あれだけ書店とCD屋でトリップ出来たのにね。
ところで、私は豊島与志雄の作品なら、「オランウータン」もいいけれど「蝦蟇」も好き。「わくどう爺」という登場人物が(名前からして)いい。

Mar 19, 2018

七〇 良暹法師

七〇 良暹法師
さびしさに やどをたちいでて ながむれば
      いづこもおなじ あきのゆふぐれ

<通釈> 秋の夕方は淋しくて堪えがたいから、家を出てながめわたすと、どこもかしこも同じさびしい秋の夕暮であることよ。
(任天堂株式会社『小倉百人一首しおり』)

任天堂の通釈に異を唱えるつもりはないが、「家を出」たのは、本当に「秋の夕方は淋しくて堪えがた」かったからだろうか? 「淋しさに 宿を立ち出で」たとは聞いたが、その淋しさは果たして秋の夕方と関係していたのか? 淋しさに理由など要らないし、状況証拠も必要ないと思うのだが……。そう、春夏秋冬、朝昼晩、家でも店でも広場でも、俺たちはいつどこで淋しくなってもいいじゃない!
 と、そんな決意表明はともかく、「いづこも同じ 秋の夕暮れ」という鮮烈な言葉は、もはや誰か一人の人間が作ったとは思えないくらいに、この言語に染み着いているように感じられる。しかし、このフレーズの魅力は一体何なのか? これは単なる淡い期待と裏切られた期待の話ではないだろう。淡い期待には淡い不安も入り混じっていて、「いづこも同じ」には、失望だけでなく救いもあるはずだ。仕切られた空間、中と外、此方と彼方の問題、「ここではないどこかへ!」という空間の不連続にまつわる期待と不安を、「いづこも同じ」は、「『ここではないどこか』など、どこにもない!」とばかりに打ち壊す。おや、残念、でも、よかった……。諦めつつ高を括るという速やかで軽やかな諦念と自足の儀式。「いづこも同じ 秋の夕暮れ」というイデオロギーは、この歌を共有する者の強みでもあり、限界でもあるに違いない。

 ところで、土地も時代も異なるThe Kinksが、”Autumn Almanac”で、
This is my street, and I'm never gonna to leave it,
And I'm always gonna to stay here
If I live to be ninety-nine,
'Cause all the people I meet
Seem to come from my street
And I can't get away, (…)
と、彼方の不可能性を歌っていることを考えると、やはり「秋」には圧倒的なものを感じさせる何かがあるのかも知れない。



一方、ヴェルレーヌの「秋」は……、いや、それよりも何よりも、ボードレールの「秋」は、遥かに切実で、「あなたの長いまなこの緑がかった光が好きだ(安藤元雄訳)」とか言いながら、恰もダニアースのCMの野坂昭如のように切羽詰まっている。が、それはまた別の機会に。



良暹
良暹(りょうぜん、生没年不詳)は、平安時代中期の僧・歌人。
出自・経歴については不明であるが、比叡山(天台宗)の僧で祇園別当となり、その後大原に隠棲し、晩年は雲林院に住んだといわれている。一説では、康平年間(1058年 - 1065年)に65歳ぐらいで没したともいわれている。
歌人の友として、賀茂成助・津守国基・橘為仲・素意法師などがいた。(…)
(Wikipedia)
……友達、全員知らない人。