(承前)だがしかし、「ぐりはいつも青、ぐらはいつも赤」という服の色以外でぐりとぐらを見分けることは可能だろうか?
そもそも、「青いほうがぐりで赤いほうがぐら」と、これまで何気なく服の色で識別して来たこと自体酷い話なのであって、喩えて言うなら、桃色だから林家ペー・パー子、サングラスをかけているから澁澤龍彦、と決め付けるようなものだ。この伝では林家ペーと林家パー子の区別はどうやっても付かないし、野坂昭如も澁澤龍彦になってしまう。
それに、いつだって青がぐり・赤がぐらなら、ピンキーとキラーズの「恋の季節」に出て来る「あの人」は「ぐり」、「四国辺のある中学校」の「わんわん鳴けば犬も同然な(夏目漱石『坊っちゃん』)」あの教頭は「ぐら」と、枚挙に暇がない。
しかし、それにしても、夜明けのコーヒーふたりで飲む前には「裸だったから分かりませんでした」では済まされない事情もある。前述した「Y・Y氏」の証言によれば、ぐりとぐらが「入れ替わってお互いのふりをしていないとは限らない(福音館書店母の友編集部編『ぼくらのなまえはぐりとぐら 絵本「ぐりとぐら」のすべて。』p.50)」のだから、仕草や声色まで似せている可能性は否めないが、少なくとも「ぐり的なもの」と「ぐら的なもの」という程度の差異は存在するはずだ、……と、調停委員でなくても疑う必要があろう。例えば、ぐりの背中に桜吹雪、ぐらの左の乳のすぐかたわらに三つの黒子でもあれば、お白州の悪党どもにも一目瞭然だし、本多も間違った養子縁組をせずに済むわけで(三島由紀夫『天人五衰 ―豊饒の海・第四巻―』)、速やかに「これにて一件落着」となるのだが、比較的肌が露出している『ぐりとぐら』(ズボンのみ)『ぐりとぐらのかいすいよく』(水着)『ぐりとぐらとくるりくら』(ズボンのみ)『ぐりとぐらとすみれちゃん』(ズボンのみ)をつらつら眺めても、気になる点は、またしても、異色の最高傑作『ぐりとぐらとくるりくら』くらいで、例えばp.17のぐりの背中に五・六個、ぐらの背中に二・三個見える濃淡の強い色むら、これは一体何か! というところなのだが、やはり、これをほくろと呼ぶなら、牽強付会の謗りは免れまい。
今のところ、彫り物や黒子の描写は「ぐりとぐら」シリーズ全作を通して、絵にも文にも見当たらないようである。いよいよ困った。(つづく)
Asthmatic Book Center
Jan 23, 2012
Jan 12, 2012
増補 民族という虚構 / 小坂井敏晶
この本で繰り広げられる論議については、既に「はじめに」で、くっきりと輪郭を描かれている。
民族同一性は虚構に支えられた現象だという主張を本書は一貫して展開してゆく。そのことはしかし、民族が現実の力を行使しないことを意味するのではない。虚構と現実とが相反するという常識がそもそも問題視されねばならない。と、このような方向付けのもと、「民族」を直接的な題材にして虚構の姿を追い続け、生物学、心理学、社会学など幅広い領域に渡って丁寧に検討していくのだが、当方にとって最も印象深かった例―まず衝撃を受け、やがてじわじわと得心していった例―は、下記のHenri Tajfelのものだった。
(…)
そしてさらには、虚構であるにもかかわらず現実を生み出すという消極的な発想から、もう一歩踏み込んで、実は虚構のおかげで現実が生成されるというように、虚構と現実を結びつけている積極的な相補性を明らかにしよう。
(小坂井敏晶『増補 民族という虚構』p.005-006)
(…)例えば、硬貨を投げて裏が出るか表が出るかによって無作為に選ばれた半数の被験者を「紅組」と名付け、残りの半数を「白組」と呼ぶだけで、各被験者は自らが属する組をひいきにする。(…)ところで、「補考」として2011年発行のこの文庫に付け加えられた「虚構論」では、これまで切り口として来た虚構そのものが俎上に載って、駆け足ではあるものの論議は「世界が合理的に進行するならば、時間は消失する。そして、合理性からの逸脱が意味を生む」に至る。そこには虚構をめぐった緻密で息の長い探求の現在が垣間見え、思考は勢い壮大の色を帯びて来ているようで、『民族という虚構』、『責任という虚構』につづく、いや、もしかするとそれらをも包括する、次なる『虚構』への期待が膨らむ。
ここで我々の関心にとって大切な点は、自分の組の利益を最大にする意図よりも、自他の差を最大にする動機から差別が生まれる事実だ。例えば自分の組の構成員がそれぞれ一〇〇〇円を獲得し、相手の組の構成員が八〇〇円得る状況Aと、自分の組の人々が五〇〇円を手に入れ、相手の組の人々が二〇〇円もらう状況Bのどちらかを選択できる場合、状況Aよりも状況Bを好む、すなわち、自らの組が損をしてでも他の組との差が大きくなるような選択をするのである。
(同上p.036-037 , 原注(21) H. Tajfel (Ed.), Differentiation between Social Groups: Studies in the Social Psychology of Intergroup Relations, Academic Press, 1978.)
Jan 2, 2012
ぐりとぐらの見分けかたn°1「証言」
青いほうがぐりで赤いほうがぐらなのは当たり前の常識で、福音館書店母の友編集部編『ぼくらのなまえはぐりとぐら 絵本「ぐりとぐら」のすべて。』p.50-55「「ぐりとぐら」の世界をのぞいてみれば。」の「ぐりとぐら」の項、
ぐりとぐらなどわざわざ引くまでもないのだが、同書のこれに続く一文が証言する、柔軟な思考、というよりも常軌を逸した懐疑に不意を突かれ膝がかっくんとなる。すなわち、
ふたごの兄弟の野ねずみ。いつも色違いのおそろいの服を着ている。ぐりはいつも青、ぐらはいつも赤なので、たやすく見分けがつく。(…)
(福音館書店母の友編集部編『ぼくらのなまえはぐりとぐら 絵本「ぐりとぐら」のすべて。』p.50)
(…)ただ、ふたりをよく知るY・Y氏によると、ある日、入れ替わってお互いのふりをしていないとは限らない、とのこと。であり、「Y・Y氏」が作者の一人、山脇百合子氏でないことを祈りたいが、「ぐりはいつも青、ぐらはいつも赤」という我々の学習が揺さぶりをかけられているわけで、これまでそんなことは思いも寄らなかったのに、一度疑い出したら、ぐりの面をかぶったぐらや、ぐらの面をかぶったぐりが跋扈する同一性のぐらつき(ぐりつき?)に軽い眩暈がする。青いことを確かめて、ぐりと寝たつもりが、実はぐらだった、では如何にも都合が悪かろう、ほとんど、Audrey Niffeneggerの"Her Fearful Symmetry"の世界ではないか! ("Her Fearful Symmetry"はもっとややこしいが……)。ぐり ぐら ぐり ぐら。(つづく)
(同上)
Dec 25, 2011
オイゲン・ガウス -我らの同時代人-
ダニエル・ケールマンのベストセラー『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』は、言うまでもなく「旅」に関する物語であり、ずっと家にいることさえ、場合によっては「旅」の一形式に過ぎないと提示する。
肉体は世界各地を自由に旅行しながらも、精神は甚だ硬直の嫌いがあるフンボルト像と、肉体は祖国から一歩も離れないが、やけに風通しのいい精神を持つガウス像、彼らの体の自由と心の自由の対照を交互の章で語りながら、仕舞いには、
主人公であるフンボルト(1769-1859)とガウス(1777-1855)は、ゲーテ(1749-1832)、ナポレオン(1769-1821)、ヘーゲル(1770-1831)、ベートーヴェン(1770-1827)などと同時代人であり、カント(1724-1804)辺りが先鞭を付け、フローベール(1821-1880)辺りで早くも斜陽の兆しを見せる「独創性」の時代を生きた。「独創性」という概念が確立され、無条件で顕揚された短くも幸福な時代であり、実は彼らの「旅」とは、極短期間だけ人々に許された「天才」の所産に他ならない。
そして、この小説は、ガウスの息子オイゲンがアメリカへ渡る場面で終わる。ナポレオン3世(1808-1873)と同時代人であるこのオイゲン(1811-1896)こそが我らの同時代人であり、本人の素質とは無関係に「独創性」というものが揺らいで「凡庸」が発明された時代を生きている。だからこそ、ガウスに始終罵倒されているオイゲンの姿に、われわれは胸を酷く締め付けられるのだ。そもそも、「天才」たちだって最終章付近では如何にも惨めではないか……。しかし、この痛々しさは老衰の悲哀などでは毛頭なくて、「独創性」神話自体の衰退に他ならず、老衰は寧ろ彼らにとって救いなのだ。何しろ、オイゲン(=我々)ときたら、否応なしにその先の息苦しい時代をたっぷり生きることになる。だから、オイゲンのアメリカ行きは間違っても「旅」ではないのであって、彼の行為は、物語を一切駆動しないだけでなく、あっけらかんと終わらせてしまうしかない。
余談だが、ガウスとフンボルトから少し下った「独創性」真っ盛りの人物として、他にもバルザック(1799-1850)やユゴー(1802-1885)などが思い当たるわけだが、日本にも為永春水(1790-1843)という「天才」がいたことを想起したい。また、もうひとつ余談で、このような「近代」観が、それ自体、畢竟「近代」の産物に過ぎないということさえ内包しているという、永久機関性に綻びのヒントがないだろうか? ということと、まだきちんと言語化出来ないものの、良きにつけ悪しきにつけ、我々はいよいよオイゲンの時代(もしくは「オイゲンの時代」という思考)を脱しつつあるのではないか、という感触が近頃あるのだが、気のせいだろうか? ということ(希望的観測?)。
肉体は世界各地を自由に旅行しながらも、精神は甚だ硬直の嫌いがあるフンボルト像と、肉体は祖国から一歩も離れないが、やけに風通しのいい精神を持つガウス像、彼らの体の自由と心の自由の対照を交互の章で語りながら、仕舞いには、
……もはやフンボルトには、ガウスと自分のどちらが旅をしてきた者であり、どちらがずっと家にいたのかわからなくなっていた。と、二対が見分けが付かないくらいに融合するこの物語は、そもそも、肉体であろうと精神であろうと彼らの行為が「旅」であったことを示している……というよりも、この小説において「旅」とは彼らの行為の隠喩なのである。
(ダニエル・ケールマン『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』)
主人公であるフンボルト(1769-1859)とガウス(1777-1855)は、ゲーテ(1749-1832)、ナポレオン(1769-1821)、ヘーゲル(1770-1831)、ベートーヴェン(1770-1827)などと同時代人であり、カント(1724-1804)辺りが先鞭を付け、フローベール(1821-1880)辺りで早くも斜陽の兆しを見せる「独創性」の時代を生きた。「独創性」という概念が確立され、無条件で顕揚された短くも幸福な時代であり、実は彼らの「旅」とは、極短期間だけ人々に許された「天才」の所産に他ならない。
そして、この小説は、ガウスの息子オイゲンがアメリカへ渡る場面で終わる。ナポレオン3世(1808-1873)と同時代人であるこのオイゲン(1811-1896)こそが我らの同時代人であり、本人の素質とは無関係に「独創性」というものが揺らいで「凡庸」が発明された時代を生きている。だからこそ、ガウスに始終罵倒されているオイゲンの姿に、われわれは胸を酷く締め付けられるのだ。そもそも、「天才」たちだって最終章付近では如何にも惨めではないか……。しかし、この痛々しさは老衰の悲哀などでは毛頭なくて、「独創性」神話自体の衰退に他ならず、老衰は寧ろ彼らにとって救いなのだ。何しろ、オイゲン(=我々)ときたら、否応なしにその先の息苦しい時代をたっぷり生きることになる。だから、オイゲンのアメリカ行きは間違っても「旅」ではないのであって、彼の行為は、物語を一切駆動しないだけでなく、あっけらかんと終わらせてしまうしかない。
余談だが、ガウスとフンボルトから少し下った「独創性」真っ盛りの人物として、他にもバルザック(1799-1850)やユゴー(1802-1885)などが思い当たるわけだが、日本にも為永春水(1790-1843)という「天才」がいたことを想起したい。また、もうひとつ余談で、このような「近代」観が、それ自体、畢竟「近代」の産物に過ぎないということさえ内包しているという、永久機関性に綻びのヒントがないだろうか? ということと、まだきちんと言語化出来ないものの、良きにつけ悪しきにつけ、我々はいよいよオイゲンの時代(もしくは「オイゲンの時代」という思考)を脱しつつあるのではないか、という感触が近頃あるのだが、気のせいだろうか? ということ(希望的観測?)。
Nov 3, 2011
アリス・アマテラス 螺旋と変奏 / 天沢退二郎
私たちの詩はつねにカタストロフの彼方へ向かうであろう
という帯の惹句が、収録された詩篇からの引用ではなく、「おぼえがき」の、しかも[追記]からの引用であるというのは、確かにキャッチーな文句だし気持ちは分からないでもないのだが、どうしても斬新というよりは奇異な印象を受ける。それならば、どの詩篇のどの部分が惹句に相応しいかを暫し検討したのだったが、私なら、やはり表題作「アリス・アマテラス」から、ここを選ぶだろう。
さて問題のスーパー超新幹線超超特急の
最高時速は一〇〇〇〇kmに達する予定だという
……は? 「超超」? 何それ? という感じがいい。こんなことを言えるのは、天沢退二郎でなければ男子小学生(敬意を表し「DS」と呼ぶ)しかいない、つまり「最高時速」「一〇〇〇〇km」を最高時速一〇〇〇〇kmで活字まで導けるのは天沢退二郎しかいない。
そして、「スーパー超新幹線」。『アリス・アマテラス 螺旋と変奏』は、近年の天沢退二郎の数多の詩篇を様々な乗り物が駆動しているのに引続いて、この表題作に現れる「新幹線」と(/すなわち)「鳥」のイメージで満たされている、とまずは言える。
当方にとってこの詩集の白眉は「〈帆船〉ショーのためのオード」で、
あらゆる船渠に帆船を孕ませという行は、『朝の河』(1961)に収められた「陽気なパトロール」の
ジュークボックスを堕胎させなどの列挙の、シニカルなパロディとさえ思える。わざわざ「船渠」には「ドック」というルビが振ってあるが、敢えて無視すれば、「帆船(ハンセン)」に「船渠(センキョ)」、「あらゆるセンキョにハンセンを孕ませ」とはこれ如何に? ……となるわけで、60年代に対する懐古と皮肉の入り混じったオマージュは、時に「60年代詩人」と括られもする詩人にとって、些か際どい、それ故に極めて挑戦的な自己言及の試みだと思う。ここで、50年前の「老人は蹴とばし眼鏡だけはこわさず(陽気なパトロール)」に立ち向かうのは、「象さん語録(〈帆船〉ショーのためのオード)」というかわいらしい言葉だ。
有為転変の毎日で / あのころはみんな叫んでたVive les DS !
(〈帆船〉ショーのためのオード)
Sep 25, 2011
「鳩ほど可愛いものはない」
送られて、庫裏を出ると、鳩がくううくううと鳴く。
「鳩ほど可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んでみよか」
月はいよいよ明るい。しんしんとして、木蓮は幾朶の雲華を空裏に擎げている。泬寥たる春夜の真中に、和尚ははたと掌を拍つ。声は風中に死して一羽の鳩も下りぬ。
(夏目漱石『草枕』)
この鳩が「くううくうう」ではなく「くるっくぅ」とでも鳴いていたらもっと素敵だったのだが、そんなことはどうでも宜しい。夏目漱石『草枕』の「十一」が多分にミニマルな印象を与えるのは、「春」「夜」「星」「月」「空」「木蓮」「鳩」という唯でさえ強烈なイメージを孕む言葉が、「春」×5、「夜」×6、「星」×5、「月」×8、「空」×8、「木蓮」×6、「鳩」×7と、ひたすらに連呼・反復されることに因るだろう。冒頭で『トリストラム・シャンデー』について触れながらも、イメージからイメージへと連想で繋ぎ発散的に物語を形成していくわけではなく、少ないイメージの中に留まり続けることによって(留まり続けるために)収斂的に物語が紡がれるという三題噺染みた手順が興味深い。それはともかく、「和尚」という本作髄一の登場人物が活躍することだけでも「十一」はわくわくする。
Sep 18, 2011
Lachrimae Antiquae / John Dowland (performed by J. Savall)
John Dowland (1563 - 1626) was an English lutenist and composer. He is well known for his melancholic songs. The melancholia was so fashionable in the early 17th century, and his masterpiece, “Lachrimae Antiquae” was the most popular English song at that time.
I have mixed feelings about the relationship between the melancholy and the art. Although the melancholia might stir up a creative power, the art which reflects the melancholia itself (or the melancholic art) is prone to be vulgar. (… Does a melancholic person make a melancholic art?) But anyway, I need it right now.
I have mixed feelings about the relationship between the melancholy and the art. Although the melancholia might stir up a creative power, the art which reflects the melancholia itself (or the melancholic art) is prone to be vulgar. (… Does a melancholic person make a melancholic art?) But anyway, I need it right now.
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