Jul 21, 2015

Messe de Requiem en ré mineur, op. 48 III. Sanctus (Mi bémol majeur) / Gabriel Fauré

かつてSigur Rósのライブにて、「Hoppípolla」の最中に不意に涙腺がぶっ壊れて困ったことがある。「俺も!」「わたしも!」「ぼく、機械じゃないよ!」と、インターネット回線の向こうで声も高らかに、毛むくじゃらの手が、だらしなくも妖艶な二の腕が、そして、機械のようなアイボの前足が、次々に上がっている友愛に満ちた光景がどうしても瞼に浮かんでしまうのだが、そんな、この世界の荒廃について語っている暇はない。旋律、構成、演奏、歌、アイスランド語の響き、それに映像(あたかもデジタル花火!)と、兎に角、どれを取っても落涙を誘いつつ、しかし、それは安易なメランコリアではなく、例えば、知らない場所で水面を眺めている時などに、唐突に、もしくは、自分で自分を上手く煽れば入り込めたりもするあの感情の洪水(煽り方は分かるが止め方は分からない)を、針が振り切れんばかりに増幅した感じなのであって、なにせ、このカタルシスはすごい。そもそも、「水溜りをジャンプ」という題名を持つ曲が悪いわけがあろうか。……もう涙も枯れ果てたよ。



と、思っていたら、先日、またまた涙腺がガバガバになり、もはや枯れ井戸かとも囁かれていた両の眼から図らずも人間らしい涙(余談だが、Wikipediaによれば、ブタの涙は粘液だという)が滝のごとく、そう、櫂のしずくも花と散るとばかりに流れ落ちて、あらやだ、折角のお化粧が台なしザーマス、と、古今和歌集クラスの手弱女振りを発揮する羽目になったのだが、それもこれも、壊れかけのCharlus(←当方のiPod Classicの名前)がシャッフルにて届けてくれた、あのGabriel Fauréの『Requiem』第3曲「Sanctus」のお陰であった。「Hoppípolla」と「Sanctus」、差し詰め、分散和音は水面の揺らめき、とでも申しましょうか。



追伸、前にもメランコリアについて愛憎入り混じった無駄口を叩いているよ:「Lachrimae Antiquae / John Dowland (performed by J. Savall)」「鬱金 -前篇-