「此不自由なところが日本だとうれしがりけり」との一節に目が留まる。主人公の艶二郎が、たいこ医者 (*1) のわるゐ志庵に、浮名という女郎をわざわざ揚げづめにさせて、自分は新造買い(表向きは新造を買い、その姉女郎とひそかに逢う)にて逢うという粋狂な遊びをしての感想であり、『日本古典文学全集 46 黄表紙 川柳 狂歌』(小学館)の頭注によれば、「日本」とは「このころの流行語で、日本一、最上。」とのことだが、そんなことはどうでも良くて、やはり、今日的な意味での「此不自由なところが日本だとうれしがりけり」と洒落込みたい。
それはさておき、
「百万両分限のひとり息子の艶二郎が、醜い容貌にもかかわらず、うぬぼれが強くて色男を気どり、女にもてよう、世間に艶名をうたわれようと、だいそれた望みをおこし、金にあかしてあらゆる愚行をした果てに、にせ心中をしようとしたが、向島での道行きの途中、覆面した番頭に妨げられて失敗し、やっと目がさめて身をかためるという筋である」と解説されているこの『江戸生艶気樺焼』だが、艶二郎がうぬぼれたのは、「ヲヤ鳥羽絵のやうな顔のひとが通る。みんな来てみなせい」と女に言われて、「また惚れたそふだ。色男もうるさいぞ」と誤解した時くらいで、いや、その時すら、実はわざと誤解しているのではないかという節もあり、これは、基本的には、自分がもてないことを知りながら、想像上の色男を、金をふんだんに使ってなぞっていく作業に徹する話だと言える。それは、少しばかり大掛かりな性的ロールプレイみたいなものだったのだ。(……ここから安直にコスプレ文化にこじつける愚は犯すまい)。
しかし、この「恋愛プレイ」は決して穏やかな遊びではなく、例えば、「役者・女郎などの心意気にて、回向院道了の開帳へ、提灯を奉納せんと思ひ」、艶二郎が紋入りの提灯を「ずいぶん目にたつやうに奉納」する際の、「もちろん何の願もなけれども」という一文などは大いに笑ったのだが、しかし、では、本家本元の役者・女郎衆に如何ほどの願があったのか、という話にもなろうし、また、焼餅をやいてもらうために抱えた妾との会話、
艶二郎「はづかしいこつたが、うまれてから初めて、焼餅をやかれてみる。どふもいへねへ心持だ。もちつとやいてくれたら、てめへがねだつた八丈と縞縮緬をかってやらふ。もちつとたのむたのむ」というくだりもお約束で噴き出してしまうのだが、じゃあ、そもそも「本物の」焼餅って何だ? という感慨を抱くわけで、これは正に、綿密に対象(この場合は「恋愛」)の表層をなぞらえて「プレイ」することによって、複製の純度がオリジナルを越え、今や、艶二郎の純粋な行為は「恋愛」よりも「恋愛」らしくなり、どうやら現実に繰り広げられているらしい素敵な「恋愛」とやらを糾弾するわけで、凡庸な結論で申し訳ないが、一先ず、これは、非常に洗練された「うがち」ということになろう。(つづく)
妾「このあとは、八丈と縞縮が来てのことさ」
(*1) たいこ医者:すごい言葉! マルセル・プルースト『失われた時を求めて』のコタール医師もこの類か? 頭注に記された「進んではたいこ退いては藪医」(柳多留拾遺五・3)という句も面白い。