まず「醜い容貌にもかかわらず、(…)女にもてよう、世間に艶名をうたわれようと、だいそれた望みをおこし」と冷ややかに要約されているが、確認しなければならないのは、そもそも、凄まじいことに、艶二郎は「女にもてよう」とすらしていないということだ。彼は「もてたい!」をあっさり素通りして(いや、素通りさせられて、というべきか ?)、「もてていると思われたい!」という非常に社会性の高い欲望を抱いているわけで、青少年諸兄にはお馴染みの、収拾が付かなくなるまで膨張する「嘘彼女」と同じ構造なのである。艶二郎が最初にしたことを思い返してみよう。「艶二郎はまづ彫り物がうわきの始まりなりと、両ほうの腕、指のまたまで、二三十ほどあてもなき彫り物をし」たのではなかったか? また「近所の評判の芸者を五十両にてやとい、うちに駈けこませ、「この噂さぞ世間でするだろうと思ひのほか、隣でさへ知らぬゆへ、(…)読売をたのみ、此のわけを板行にをこして、(…)江戸中を売らせる」というジャーナリスティックな行動に走る仕草はどうか? これがもてたい男のすることか!
しかしながら、山東京伝の真骨頂は、読売の「評判評判。仇気屋のむすこ艶二郎といふ色男に、うつくしい芸者がほれて駈けこみました。(…)紙代板行代におよばず、たゞじやたゞじや」という呼び声に、窓から見る女が、
「なにさ、かたもない事だのさ。みんなこしらへ事さ。たゞでも読むがめんどうでござんす」と呟くことである。もてるとか、もてないとか、実はそんな物語はどうでも良くて、「たゞでも読むがめんどうでござんす」というところまで、印刷物に対する接し方が成熟していることに着目したい。(本題からやや逸れるが、当方、心が拗けているせいか、小説中で不意に読書が素敵に描かれると困惑する。原理的に読書中の人しか目にしない文章で、素直に読書の素晴らしさを讃えるならまだしも、読書をお洒落に知的に描くという周到さ。もちろんこちらの拗け心ゆえのことだろうが、時に破廉恥だとさえ思う。斯様に「たゞでも読むがめんどうでござんす」という記述と、私は羞恥心を共有するのであるが、それはともかく)。そういう観点に立って改めて俯瞰すると、艶二郎が「腹ばいに寝そべって、たばこをふかしながら、新内の正本を見ている」齣で始まり、最後の齣では「(…)しかし一生のうきなの立ちおさめに、今までの事を草双紙にして世間にひろめたく、京伝をたのみて、世上のうわき人を教訓しける。」との創作秘話にて締め括られるこの黄表紙が、実は色男に対する執着ではなく、徹頭徹尾、印刷物に対する執着に関するものである様が浮かび上がってくる。すなわち、艶二郎は一切懲りていない。いや、それどころか、全ては艶二郎の筋書通りだったのだ。
ことほど左様に、どことなくフローベール(1821-1880)の『ブヴァールとペキュシェ』も髣髴とさせ、見方によっては、凡庸の時代を生きる近代小説のずっと先を行っているようにも見える、山東京伝(1761-1816)二十代半ばの作『江戸生艶気樺焼』、これも「天明の青春」(石川淳「狂歌百鬼夜狂」)のなせる業であろうか?